舊唐書卷一百四十九 列傳第九十九 張薦

辺境使節と史官の家系

  • 薦、字は孝擧、深州陸澤の人。祖父張翾(字文成)は聡明で博覧強記、進士及第の対策で「天下無双」と評され岐王府參軍から諸科八挙すべて甲科に及第、判策の巧みさから「青銭学士」と称された。ただし性格は褊狭で品行に難あり、開元初に語の諷刺を咎められ嶺南に貶されたが刑部尚書李日知の弁護で近地に移された。新羅・日本など東夷諸蕃が競って文を求めるほど文名は遠く広がった(默啜が「唐にこの人材がいながら用いぬなら我らに恐れるものはない」と語った逸話も伝わる)。
  • 薦は若くして史伝に精通し顏眞卿に称賛された。天寶中、浙西観察使李涵の推挙で左司禦率府兵曹參軍を授かったが母の病で赴任せず、母の喪明け後に史館修撰・陽翟尉。朱泚の乱では変姓名して身を隠し『史遁先生伝』を著した。徳宗還京後、左拾遺。貞元元年冬の親郊儀礼が乱れた際、太常博士として礼を整えた。四年、回鶻和親の使団(正使關播)に判官として同行、殿中侍御史・工部員外郎・戸部郎中を経て十一年、諫議大夫・史館修撰。
  • 裴延齡の専横を批判しようとしたところ、延齡が「諫官と史官の兼任は不適切」と讒言し、徳宗もこれを容れて薦は秘書少監に転じさせられた。それでも延齡の排斥は続き、回鶻可汗の冊立・弔祭使として兼御史中丞で出使。二十年、吐蕃贊普の死去に伴う吊祭使として工部侍郎・兼御史大夫で入蕃したが、途上赤嶺で病を得て紇壁驛で客死、吐蕃側が柩を送り届けた。順宗即位後に訃報が届き禮部尚書を追贈された。
  • 拾遺から侍郎まで約二十年間常に史館修撰を兼ね、三度の絶域への使者もすべて憲職を兼ねた。文集三十巻、『五服図』『宰輔略』『霊怪集』『江左寓居録』等が伝わる。子の又新・希復は共に進士及第。

張薦子孫 又新・希復・讀

  • 又新は幼くして文才があり巧言に長けた。長慶中、宰相李逢吉が翰林学士李紳を憎み、又新は拾遺李續之・劉棲楚らと共に紳を陥れる先兵となり「鷹犬」と呼ばれた。紳が端州司馬に左遷された際、朝臣が祝賀のため宰相府を訪れると門番に「張補闕が中で相公と話している」と足止めされ、又新が汗を拭いながら出てきて「あの一件、又新が中心となった」と豪語し人々に恐れられた。李續之らと合わせて「八関十六子」と称された。
  • 寶暦三年、逢吉の山南東道節度使赴任に又新は副使として随行。逢吉が門下省主事田伾(贓罪で逃亡していた者)を庇っていた事実が裴度に暴かれ、逢吉は俸給罰、田伾を推挙した咎で又新は汀州刺史、李續之は涪州刺史に左遷された。逢吉の致仕後、李訓の専権期に一時復官したが、訓の失脚で再び貶され卒した。
  • 希復の子讀は進士及第、俊才で知られ中書舍人・禮部侍郎(貢挙を掌り評判を得た)を経て尚書左丞で終えた。