史官として朝廷の顧問を務めた碩学
- 乂、字は德源、常州義興の人。祖瑰は太子洗馬・弘文館学士、父將明は左司郎中・国子司業・集賢殿学士。史官吳兢の外孫にあたり幼くして書に親しみ、七歳で庾信『哀江南賦』を数遍で暗誦するほどの記憶力で知られた。二十歳で群書に通じ史才に優れ、父が戦乱後の集賢院蔵書の整理を宰相に願い出て乂を招き、二年余りで二万余巻を整理した功で王屋尉・太常禮院修撰、貞元九年に右拾遺・史館修撰。
- 十三年、張茂宗(喪中)の義章公主降嫁に対し起復して婚礼を行う詔に対し、乂は「駙馬の起復尚主は前例がなく人情にも反する」と諫めた。徳宗は「茂宗の母の遺言」を理由に説得を試みたが乂は重ねて諫言、延英殿で「借吉の婚は俗にあるが男子の借吉婚娶は前例がない、公主はまだ幼いので一年待つべき」と論じ、徳宗も一時納得したが、韋彤・裴堪の重ねての諫奏には応じず結局実行させた。それでも乂への信頼は篤かった。
- 凌煙閣の壁画の欠損文字を復元できる者がおらず、乂だけが『聖歴中侍臣図賛』の全文を暗誦し欠落なく補ったことで徳宗を驚嘆させた。十八年、起居舍人・司勛員外郎に転じ史職を兼ねた。神策軍の建置経緯を尋ねられ諸学士が答えられぬ中、乂だけが詳細な根拠を示し「集賢に人あり」と評され集賢院事の判官を兼ねた。順宗の祔廟儀礼で中宗の位置づけ(中興の主か否か)を巡る議論でも、乂は「中宗は母后から権力を奪回したのではなく五王の擁立による復位であり中興とは呼べない」と論じ、この見解が採用された。
- 元和二年、許孟容・韋貫之らと共に格勅の刪定を完成させ三十巻を上奏。秘書少監・兼史館修撰、獨孤郁・韋處厚と共に『徳宗実録』を修め、五年に完成、右諫議大夫。監修国史の裴垍罷免に伴い太常少卿、のち秘書監。
- 朴訥で世渡りが下手なため権臣が専権の間は昇進が滞ることもあったが、朝廷で三十年にわたり重要な政事・議論の際には必ず諮問され、典故を引いて的確に答えた。学問への熱心さは老いても衰えず、寒暑を問わず読書に励み、百家に通じ歴代の沿革に特に精通、蔵書一万五千巻。本名「武」を憲宗への奏上で「群盗誅滅・偃武修文の時代にそぐわない」として「乂」に改名した。史職二十年で『大唐宰輔録』七十巻、『凌煙閣功臣』『秦府十八学士』『史臣』等の伝四十巻を著した。長慶元年、七十五歳で卒し贈禮部尚書、諡は懿。子は係・伸・偕・仙・佶。
蔣乂子孫 係・伸・偕
- 係は太和初、昭應尉・直史館から右拾遺・史館修撰。同僚と共に『憲宗実録』を修め四年に完成。宰相宋申錫が禁軍に無実の罪を着せられた事件で諫官崔玄亮と共に涙で諫め減刑に貢献した。開成中、諫議大夫、武宗朝は李德裕に李漢の姻戚関係を理由に疎まれ桂管都護観察使に出された。宣宗即位後、給事中・集賢殿学士・判院事、吏部侍郎・左丞・興元節度使・刑部尚書・鳳翔節度使・兵部尚書を歴任、弟伸が宰相になると謙譲して地方官(山南東道節度使等)に転じた。
- 伸は進士及第から諸使府佐官を経て、大中初に右補闕・史館修撰、中書舍人・翰林学士、戸部侍郎・学士承旨・兵部侍郎、大中末に中書侍郎・平章事。
- 仙・佶は共に刺史。偕は史才があり左拾遺・史館修撰・補闕を歴任、咸通中に『文宗実録』の編纂に参加した。
- 蔣氏一族は代々儒学と史学で知られ文藻を旨としなかったが、伸と係の子兆に文才があり進士及第したものの文人からは特に評価されなかった。柳氏・沈氏父子と共に国史実録を相継いで修め「良史」と称され、世に『蔣氏日暦』と呼ばれ士族が競って蔵した。