舊唐書卷一百四十九 列傳第九十九 奚陟
京兆府の実務を正した清吏
- 陟、字は殷卿、亳州の人。進士及第・制挙文詞清麗科に登第、弘文館校書・大理評事を経て左拾遺、父母の喪に礼を尽くした。徳宗の興元行幸に起居郎・翰林学士に召されたが病で固辞、太子司議郎・金部吏部員外郎・左司郎中を歴任、数度の使者役でも評価を得た。
- 貞元八年、中書舍人。江南・淮西の水害の慰問使として人々に安堵された。中書省の慣例的な待遇差を廃し料銭基準に統一、中書令李晟の余った紙筆を舍人に分配するなど公平な運用に努め、庶務も自ら点検し職務に倦むことがなかった。
- 裴延齡が京兆尹李充を陥れようとした事件で、比部郎中崔元翰が延齡に阿って府史を苛烈に取り調べた際、陟は自ら府の帳簿を精査し「李充の使途は正当な範囲内で、不正額はわずか」と実態を明らかにした。元翰は志を遂げられず憤死した。陟の寛平な守法姿勢はこうした点に表れていた。
- 吏部選事を掌り公正な銓衡で称され吏部侍郎に進んだが、貞元十五年、五十五歳で卒し贈禮部尚書。