舊唐書卷一百四十九 列傳第九十九 歸崇敬

礼制論議の第一人者

  • 崇敬、字は正禮、蘇州吳郡の人。経学で登第、孝行で知られ四門助教から左拾遺・秘書郎・起居郎・贊善大夫・兼史館修撰・集賢殿校理を歴任、家貧で外職を求め同州・潤州長史、玄宗・肅宗二帝の山陵儀礼を担当し主客員外郎・膳部郎中。
  • 百官の朝服が古礼にない「褲褶」であることを指摘し廃止させた。東都太廟の木主(則天武后が建てた武氏の位牌)を巡っては「桑主・栗主の交替制からして神主を残すべきでない」と論じ、釈奠儀礼の作法や五人帝(太昊ら)を臣下のように扱う祭祀への異論も唱えた。太祖景皇帝の配天論も含め国家の大礼に常に関与した。
  • 大歴初、新羅王の弔祭・冊立使として渡海した際、暴風雨で船が壊れかけたが「船中数十百人を差し置いて自分だけ小艇で逃げられぬ」と拒み無事だった。慣例の使者による現地交易も一切断り、新羅人にその徳を称された。帰国後、国子司業・兼集賢学士として『通志』編纂に参加し禮儀志を担当、評価された。
  • 皇太子の齒胄の礼に際し、国学の制度・名称の刷新を上疏。天子の学「辟雍」の古制に基づき国子監を「辟雍省」に改称すること、祭酒を「太師氏」に、司業を「左師・右師」に改めること、『礼記』『左伝』を大経、『周礼』『儀礼』『毛詩』を中経、『尚書』『周易』を小経とする経書の格付けと博士制度の再編、帖経偏重を排した大義中心の考試法などを詳細に提案したが、「監」を「省」とする呼称変更や祭酒の改称は旧習ゆえに実現しなかった。
  • 国学の胥吏の食費不正で御史台の弾劾を受け饒州司馬に貶されたが、建中初に国子司業に復し翰林学士・左散騎常侍・銀青光祿大夫を経て普王元帥参謀。両河の叛乱鎮定に際し宣慰使として派遣され使命を果たした。特進・檢校戸部尚書・工部尚書・皇太子侍読を歴任、老齢を理由に兵部尚書致仕、貞元十五年、八十歳で卒し贈左僕射。子の登が跡を継いだ。

歸崇敬子孫 登・融

  • 登、字は沖之。孝行で知られ、大歴七年に孝廉高第、四門助教から貞元初に賢良科に登り右拾遺。裴延齡の専横に対し諫議大夫陽城が痛烈に諫言し徳宗の怒りを買った際、右補闕熊執易も危険を承知で連署を求め、登は「雷電の下で貴殿一人に負わせられぬ」と共に諫言に加わり評価された。三任十五年を務めながら出世を急がず、蔣武と共に淡々と職務に徹した。兵部員外郎・皇子侍読・史館修撰。
  • 順宗の東宮時代の旧恩で給事中に抜擢され、工部侍郎として『大乗本生心地観経』の翻訳にも従事。東宮・諸王の侍読として『龍樓箴』を献じ諷諫、左散騎常侍を経て憲宗に諫言の重要性を説き称賛された。兵部侍郎・判国子祭酒事・工部尚書、元和十五年、六十七歳で卒し贈太子少保。
  • 文学に優れ草隷を能くし、寛容な人柄で、僮僕の馬の失態にも咎めず、金石の薬を勧められた際に効能を疑わず服用し中毒しかけても怒らなかったという逸話がある。陸象先の人柄を慕ったと評された。子の融が跡を継いだ。
  • 融、進士及第。監察御史から工部員外郎・考功員外・工部郎中・翰林学士・中書舍人・戸部侍郎・兼御史中丞を歴任。湖南觀察使盧周仁が勅に反し過剰な羨余銭十万貫を進上した際、融は「天下は一家、地方の私的な進奉を認めれば模倣が横行し民が苦しむ」と諫め、河陰院での備蓄運用に改めさせた。金部員外郎韓益の受賄事件では他事例との比較で軽重を判断し貶官に処した。
  • 京兆尹として財政不足の折の特別支給の運用を巡る問答や、文字の音義についての文宗との対話でも学識を示し、公主降嫁の儀礼日程調整でも実務手腕を発揮した。李固言の宰相就任で疎まれ罷免されたが、楊嗣復の輔政期に兵部・吏部侍郎、檢校禮部尚書・興元尹・兼御史大夫・山南西道節度使を歴任。子の仁晦・仁翰・仁憲・仁召・仁澤は皆進士及第、咸通中に達官となった。