舊唐書卷一百四十九 列傳第九十九 令狐峘

正論と偏狭の間で

  • 峘、令狐德棻の玄孫。進士及第。安祿山の乱で南山豹林谷に隠棲、司徒楊綰も未仕の頃に同所に避難し峘の博学を評価した。綰が禮部侍郎・修國史となると峘を史館に招き、華原尉から右拾遺、起居舍人と累進しつつ史職を兼ね、『玄宗実録』百巻・『代宗実録』四十巻を修めたが、戦乱で起居注が失われていたため記述に欠落が多く、良史とは評されなかった。大歴八年、刑部員外郎。
  • 徳宗即位時、元陵(代宗陵)の厚葬計画に対し峘は上疏で舜・禹・周武・漢文の薄葬の故事、宋文公の厚葬が『春秋』で批判された例、秦始皇陵の奢侈が千載非難された例、孔子の「速朽」の言、張釋之の諫言を引いて「有徳の君ほど葬儀は薄い」と論じ、徳宗自身の遺詔「金銀錦彩を用いない倹約の喪」の趣旨に反することを指摘した。徳宗は優詔で「朕の考えの誤りを正した卿の功による」と応じた。
  • 大歴中、劉晏の吏部尚書時代に峘は南曹判官として楊炎(侍郎)との人事配分で不公平を疑われ確執が生じた。建中初、峘が禮部侍郎、炎が宰相となった際、旧知の子弟杜封の推挙を巡り、炎が私的な口利きを托した証拠(署名)を峘が逆手に取って「宰相が私情で臣を迫った」と告発、徳宗は激怒し炎を追及したが、炎の弁明もあり峘は衡州別駕に貶された。
  • 貞元中、李泌の輔政期に右庶子・史館修撰に復したが、同僚孔述睿との細事での争いが絶えず、泌の死後に竇參に憎まれ吉州別駕に貶された。江西観察使齊映の巡察時、旧知の礼儀(戎服での謁見)を峘が拒んだことで映の恨みを買い、衢州別駕に降格。衢州刺史田敦は峘のかつての貢挙門生で厚遇し、峘は衢州に十年近く留まった。順宗即位で秘書少監に召されたが到着後まもなく卒した。元和三年、子の丕が献じた『代宗実録』四十巻の功により工部尚書を追贈された。