舊唐書卷一百四十六 列傳第九十六 杜亞

杜亞

  • 亞、字は次公、京兆の人と称した。至德初、霊武で政事に関する封章を献じ校書郎、杜鴻漸の河西節度従事から評事・御史、四員外郎を歴任。永泰末、劍南の乱で鴻漸に判官として従い、帰還後に吏部郎中・諫議大夫となったが、同僚楊炎の昇進を見て柄任を望む思いを強めた。李棲筠に取り入り、元載失脚時の糾問に加わった翌日には給事中・河北宣慰使に転じたが、宰相常袞に疎まれ洪州刺史・兼御史中丞・江西都團練觀察使に出された。
  • 徳宗即位時、宰輔への抜擢を期待して急ぎ上京し道中で宰相就任を吹聴するなど軽率な行動を見せたため、徳宗に疎まれ陝州觀察使兼轉運使に出された。のち河中・晉・絳等州防禦觀察使、楊炎の失脚劉晏連座で睦州刺史に貶された。
  • 興元初、刑部侍郎から揚州長史・兼御史大夫・淮南節度觀察使。前任陳少遊の重税や王紹の乱兵の掠奪後で民は亞の善政を期待したが、亞は柄任への未練から政務を参佐に委ね、賓客を招いて談論に耽った。運河の浚渫や違法建築の整理などの実務はこなしたが、竜舟競漕に漆塗りの船底や油を塗った衣服を用いるなど奢侈が過ぎ、書生上がりの放蕩ぶりが朝廷に知られた。
  • 貞元五年、戸部侍郎竇覦に代わられ、檢校吏部尚書・東都留守・都防禦使に転じた後も風病を患いつつ寵を求め、苑内の営田開拓を上奏したが、実は既に開墾済みの土地で軍中の高利貸により百姓を苦しめる結果となり流民を大量に発生させた。中官への賄賂で河南尹への兼任を図ったが果たせず、実態が露見して禮部尚書董晉に代わられ、風病と脚膝の病で朝謁もできぬまま貞元十四年、七十四歳で自宅で卒し贈太子少傅。