舊唐書卷一百四十四 列傳第九十四 李元諒

潼関・平涼での戦功

  • 元諒、本名駱元光、姓は安氏で安息の末裔。宦官駱奉先の養子となり駱姓を冒した。長身で美髭、勇敢多智。宿衛の功で試太子詹事、鎮国軍節度使李懷讓のもとで副使、潼関を十数年守り軍士に畏服された。
  • 徳宗の奉天在陣中、朱泚の偽将何望之が華州を襲い刺史董晉が逃げた際、元諒は潼関の兵と義兵で油断を突いて華州を奪還、城隍・器械を修め万余の兵を募った。功により御史中丞、朱泚の攻撃を退け続け、尚可孤の藍田守備と呼応し賊の渭南突破を防いだ。華州刺史・兼御史大夫・潼関防禦・鎮国軍節度使、檢校工部尚書。
  • 興元元年五月、李晟と共に京邑回復に従軍、浐西で賊の総攻撃を先陣で破り、苑東で苑垣を壊して突入、京師回復に功をたてたが功を晟に譲り章敬佛寺に退いた。檢校尚書右僕射・実封七百戶、甲第・女樂を賜り一子に六品官。
  • 李懷光の河中反乱では馬燧・渾瑊と討伐。賊将徐庭光が長春宮を守り元諒の招降に応じず優胡(芸人)で先祖を辱めたことを恥じ、馬燧に降った庭光を軍門で捕えて斬り、燧に匍匐して謝罪。燧は激怒し元諒を殺そうとしたが功績を鑑み止めた。徳宗は専殺を問題視せず諫官に不問を指示した。
  • 貞元三年、渾瑊に従い平涼で吐蕃と会盟。元諒は潘原堡での駐屯が遠すぎると瑊に近接布陣を進言したが詔違反として止められ、結局瑊近くに布陣し陣を固めた。会盟当日、吐蕃は伏兵で瑊を急襲、多数の死者が出て瑊は単騎で逃げ帰ったが、元諒の軍が堅固であったため虜は散じ、瑊は元諒の軍がなければ危うかった。世人は元諒に将帥の風ありと評した。良馬十匹・金銀器・錦彩を賜り、母の喪に服す中で右金吾衛上將軍・起復本官、徳宗は李元諒の姓名を賜った。
  • 四年、隴右節度支度營田觀察・臨洮軍使を経て良原に移鎮、荒廃した古城を修復し境を拓いて農地とし、軍士に耕作を勧め歳収粟菽数十万斛を得た。城守の備えを厚くし虜の侵寇を退け涇・隴を安んじた。貞元九年十一月、良原で六十二歳にて卒し廢朝三日、贈司空。