河朔諸鎮の専横と忠節の死
- 惠元は平州の人。平盧節度劉正臣に従い、田神功・李忠臣らと共に青・齊間で武勇を発揮した名将。神策軍に転じ京西兵馬使として奉天に鎮した。
- 大歴中、河北諸鎮(李正己:淄・青など十五州兵十万、李寶臣:恆など七州兵五万、田承嗣:魏など七州兵五万、梁崇義:襄など六州兵二万)はいずれも叛乱を経て割拠し、朝廷は姑息策を続け二十年近く手を出せなかった。代宗は寛柔で放任したが、德宗即位後の厳格な統治に諸鎮は動揺、汴州城の増築の噂だけで李正己・田悅が兵を動かすなど河南は緊張、朝廷は京西兵一万二千を関東防衛に移す詔を出した。徳宗は望春樓で自ら誓師し「王者の師は征あって戦なし」と兵士を諭し、多くが感涙した。宴で神策の将士が酒を辞退したのは、都将惠元が「凱旋してこそ酒を飲む」との将帥張巨濟との約束を理由に挙げ、徳宗はこれを称え慰労した。
- 田悅の反乱では禁兵三千を率い御河で戦い三橋を奪う功をたて檢校工部尚書・攝貝州刺史。建中四年冬、河朔から李懷光と共に国難に赴き奉天の囲みを解いた。翌年二月、懷光が叛くと惠元は義を守り脱出、奉天へ逃れたが、懷光の将冉宗の追撃を受け好畤県で父子三人揃って井戸に身を投げ、そこを冉宗に殺害された。興元元年、贈右僕射・絹百匹。子の晟は贈殿中監、皓は贈邠州刺史となり、忠死が顕彰された。