奉天赴難と邠寧の統治
- 遊瑰は河西靈武の人。累進して邠寧節度使。奉天の難で慶州刺史論惟明と兵三千を合わせ乾陵から醴泉を経て朱泚に対抗、賊の急襲を血戦で凌ぎ拒守した。李懷光の反乱後は山南への行幸に従い、統軍として渾瑊・戴休顏らと京西の要路を分担、興元元年に檢校刑部尚書・兼御史大夫、「奉天定難功臣」の号を授かった。京城回復後は咸陽で戦功をたて、徳宗の帰京に随行、邠寧に戻った。
- 三年、子の欽緒が妖賊李廣弘と謀反に連座したことが発覚、遊瑰は代罪を願い出たが許されず、二人の孫を京師に送り連座を求めたが赦された。入朝し謝罪の礼を執ったが慰労を受け旧に復した。邠州将吏はこの一件で遊瑰の統率力を疑ったが、辺境防備の献策で信任は続いた。しかし将である範希朝を自分への脅威と見て誅殺しようとし、希朝は鳳翔へ出奔、朝廷に召された。豐義城の築城が二度失敗し、寧州の戍卒の反乱も招くなど統治の不手際が露呈した。
- 四年七月、後任の張獻甫が着任前に告知せずひそかに帰朝したため、軍が混乱し将卒が監軍を包囲する事態となったが、都虞候楊朝晟が首謀者二百余人を処刑して鎮圧、朝晟は寧州刺史・獻甫の副に任じられた。遊瑰は右龍武統軍として京師に留められ、十四年に卒。