橫海軍節度使の世襲化
- 全略、本姓王、名日簡。鎮州の小将として王武俊に仕えたが、元和中に王承宗死後の動揺の中で朝廷に帰順し代州刺史となった。長慶初、鎮州軍乱で田弘正が殺されると、穆宗は鎮将経験のある日簡に諮問、日簡は献策の上で德州刺史に任じられた。翌年、橫海軍節度使に抜擢され「李全略」の姓名を賜った。子の同捷を入侍させ銭千万を進めたのち、同捷の帰覲時に滄州長史・知州事・中軍兵馬主を求め、当初は許されなかったが、朝廷は後にこれを認めた。表向き忠順を装いつつ内実は軍士を結集し世襲を企て、棣州刺史王稷を人望を妬んで殺害し一族も誅した。寶歴二年四月卒。
李全略子 李同捷――橫海軍の反乱と誅滅
- 同捷は副大使として喪中に留後を専断し、諸鎮に賄賂して世襲を求めた。朝廷は静観したが、文宗即位後、恩貸を期待して弟の同誌・同巽を入朝させ表を送った。詔で檢校左散騎常侍・兗州刺史・兗海節度使に転じさせ、烏重胤を滄州節度に充てようとしたが、同捷は三軍の願いと称して抗命。烏重胤に鄆・齊兵で討伐させ、王智興・李聽・康誌睦・史憲誠・張璠・李載義らも四面から進攻した。
- 同捷は旧成德軍の縁を頼り河北三鎮に玉帛・子女を賄賂として送ったが、李載義は忠を貫き、賄賂の品と使者を捕えて献上、載義を左僕射・王廷湊を司徒に加える上表もされた。廷湊は本心では滄州併呑を狙い、境上に出兵して同捷を援けた。
- 王智興の棣州進軍に際し、詔で同捷の官爵剥奪と諸軍進討が命じられた。烏重胤の死去で李寰が代わったが功なく、王智興が招撫使として指揮、史憲誠の将丌誌沼が德州を攻めた。太和二年九月、智興は棣州を収め淄青に編入させた。諸軍の駐留で軍糧費が嵩む一方、両河諸帥は小勝を誇張し賞賚を求め朝廷を疲弊させつつ賊討伐を遅らせた。
- 同捷は窮し王廷湊の援も届かぬ中、丌誌沼を誘って史憲誠に反旗を翻させ魏博節度使の座を約したが、誌沼は敗れて鎮州へ逃げた。李祐が橫海節度に代わり、太和三年三月、諫議大夫柏耆が慰撫に赴き、四月に李祐が德州を収めると同捷は投降を申し出た。祐は詐りを疑ったが、柏耆は騎兵三百で滄州に入り同捷とその家族を捕え京師へ護送。途中、廷湊軍の奪還工作の情報を得た耆は同捷を斬り首を献じ、百官が祝賀した。同捷の母孫氏・妻崔氏・子元逵らは赦され湖南に配された。
史論
- 史臣曰く――国家が藩屏を立てるのは山河を保つためであり、人材を得れば天下は安んじ、失えば干戈が起こる。李懷仙の輩は河朔の乱に慣れ姦智に長け、忠義を語ることなく、暴乱を業とし専断の殺戮を豪気とした。父子兄弟、将帥卒伍が互いに屠りあうことが風俗となったのは、王道の衰退と教化の不徹底による。憐れむべきは民が虎口に陥ったことである。その中で劉總はわずかに臣節を貯えたが、父兄を殺して栄を図り、髪を落として禍を避けようとした末、旋踵もせず他境で急死した――これは報応の験であろうか。
- 贊に曰く――国法が緩めば賊臣が驕り猖獗する。父子と称しながらも虎狼のごとき兇悪。悪が積もれば一族は滅び、身は屠られ地位も失われる。跳梁する賊徒は、我が国の彜章(常法)を汚すものである。