滄州の攻防と橫海軍
- 日華は定州安喜の人、本名は華。父元皓は安祿山の帳下将で両京陥落に従い、史思明時代に定州刺史となった。華は張孝忠の牙将として仕えた。
- 李寶臣の死後、惟嶽が抗命すると、寶臣の部将張孝忠が定州を率い帰順し成德軍節度使となり滔と共に惟嶽を討った。惟嶽誅滅後、朝廷は恆・冀を王武俊、深・趙を康日知、易・定・滄を張孝忠に分けた。惟嶽の将李固烈が守る滄州に孝忠は華を交檢に遣ったが、固烈は真定に帰る際に滄州の府蔵を悉く運び出そうとし、軍士が怒って固烈を殺し財を奪った上で華を推し「押牙が州務を代行すべき」と願い出、孝忠が華に滄州の知事を委ねた。
- 硃滔・王武俊の叛乱で滄・定間の連絡が絶たれると、両者は滄州を狙って誘いや攻撃を仕掛けたが華は応じず城を守り抜いた。録事參軍李宇の献策で使者を京師に送り、単独で滄州を守る窮状を訴えたところ、徳宗は華を御史中丞・滄州刺史とし橫海軍を再置、工部尚書・御史大夫を加え「日華」の名を賜り、義武軍への糧餉供給も命じた。以後、滄州は孝忠の易・定二州から独立した鎮となった。
- 王武俊の誘いに日華は「旧に復し恆州に隷属するなら、まず騎二百を貸して敵に対抗させよ」と応じ、武俊は喜んで二百騎を貸したが、日華はその馬を留め人だけ帰した。武俊は怒ったが朱滔の攻囲を懼れ黙認、後に武俊が帰順すると日華は馬を返し珍幣を添えて謝罪、和解した。貞元四年卒、贈兵部尚書。子の懷直が継いだ。
程日華子 懷直・執恭
- 懷直は父の死後、留後事を自ら執り、朝廷は起復檢校工部尚書・兼御史大夫とし橫海軍を節度に昇格、弓高縣に景州(東光・景城二県を管轄)を新設した。累進して檢校尚書右僕射、五年に正授節度観察使。
- 懷直は狩猟にふけり軍政を顧みなかったため、従父兄の懷信が閉門して入れず、貞元九年、懷直は入朝を命じられ檢校右僕射・兼龍武統軍として厚遇された。懷信の死後、懷直の子執恭が留後を執り、懷直は滄州に戻され、十六年に四十九歳で卒し贈揚州大都督。
- 執恭は父を継ぎ、元和六年に入朝して尚書左僕射を加えられた。滄州衙門の額に「權」の字が現れる夢を見て改名を願い、権と改めた。十三年、淮西平定を機に三鎮の世襲慣行に不安を覚え入朝を願い出、華州刺史鄭權に代わらせ、京師の邸宅拡張を賜った上で檢校司空・邠州刺史・邠寧節度使に転じ、十四年十一月に卒し贈司徒。一族三十余人が朝廷に宿衛として仕えた。