幽州節度使への推戴
- 怦は幽州昌平の人。父貢は廣邊大鬥軍使。怦は硃滔の従兄弟にあたり、雄武軍使として屯田を広げ節約に努め評判を得た。涿州刺史を経て、滔の田承嗣討伐時に留府事を領し寛政で人心を得た。李寶臣が承嗣と通じ滄州を得た際、瓦橋関で滔を襲おうとしたが、怦の防備で寶臣は進めず、御史中丞を加えられた。
- 寶臣死後の惟嶽討伐、続く滔・武俊の深州をめぐる不満から両者が叛乱を計画すると、怦は書を送り滔を諫めた。「司徒(滔)の位はすでに極まり、故郷昌平は尉卿・司徒里と改称されるほどの栄誉を得た。忠順を保てば万事成る。近年、戦いを好み成敗を顧みず一族滅亡した例は安・史である。密親として黙っていられず申し上げる」と。滔は従わなかったが直言を喜び怦を疑わなかった。出征の際は常に怦に留後を任せ、大冀王僭称時には右僕射・范陽留守とした。朱泚が滔を南下させ貝州で敗れて帰る際、怦は范陽の兵甲を集め二十余里に並べて出迎え、その忠義が称えられた。
- 貞元元年、滔の死後、三軍は怦に軍府の統率を推し、朝廷は幽州大都督府長史・兼御史大夫・幽州盧龍節度副大使・知節度事等を授けた。在位三月で同年九月に五十九歳で卒し廢朝三日、贈兵部尚書。子の濟が継いだ。
劉怦子 劉濟――幽州節度使としての功と横死
- 濟は怦の長子。生誕時に大蛇の異相があったと伝えられる。累進して行軍司馬・檢校兵部尚書、怦死後、河朔の慣行により軍人に推され父の後を襲った。
- 貞元五年、左僕射・幽州節度使。烏桓・鮮卑の侵寇を千余里追撃し辺境を平定。両河諸鎮が驕慢な中、濟は最も恭順に朝献を続け同中書門下平章事、順宗即位で檢校司徒、元和初に兼侍中を加えられた。王承宗討伐では諸軍に先んじて撃破し三百余人を生捕り首級千余を挙げ、詩を献じて忠憤を表した。翌年、瀛州で樂壽・博陸・安平等県を攻め俘獲多く、子孫四人に六品官を賜るなど厚く賞された。病を得た折に承宗が赦されたことで兼中書令を拝したが、鎮に二十余年ありながら入朝せず、弟の澭を殺そうと図る(澭は帰国し忠臣となった)など問題も抱えた。病中、次子の總が濟の腹心唐弘實と共謀し鴆毒で濟を殺害、数日後に喪を発した。時に五十四歳、贈太師、廢朝三日、諡は莊武。
劉濟弟 劉源・劉澭
- 弟の源は貞元十六年八月に檢校工部尚書・兼左武衛將軍。涿州刺史時代に兄の教令に従わず漠州參軍に貶されても詔に従わず、濟が兵を率い涿州に至ると源も出兵したが交戦前に自潰、濟に捕えられ幽州で入朝を命じられた。
- 異母弟の澭は読書と武芸を好み財を軽んじ士を愛して人心を得た。硃滔に仕えた際は順逆の理を説いた。父怦の臨終に際し澭が兄濟を漠州から呼び戻し節度使に就かせた縁で濟に感謝され、瀛州刺史として後継含みの扱いを受けたが、後に濟が自子を副大使に立てたため澭は怒り、隴塞防衛を志願、部下一千五百人・男女一万余口を率い一人の違反者もなく京師へ向かった。徳宗は寵遇し秦州刺史・普潤縣治とした。
- 順宗の太上皇即位に際し、山人羅令則が澭に廃立の異端を説いたが澭は即座に捕縛、令則は仲間の多さと德宗山陵時の蜂起を語ったため京師へ送られ杖死させられた。澭の軍は蕃戎に恐れられ、河湟回復の志を持つ者として評価された。元和二年十二月卒。
劉濟子 劉總――父弑逆と落飾
- 總は濟の第二子、陰険な性格。元和五年、濟が王承宗討伐を命じられ長子緄を副使代理とした際、瀛州刺史であった總は饒陽で行営都兵馬使を務め、戦果が上がらぬのに乗じ判官張某・孔目官成國寶らと謀り、偽の使者を送って「朝廷は相公(濟)の逗留を理由に緄を節度使にした」「旌節が既に太原・代州に至った」と嘘の情報を流して軍を動揺させた。濟は激怒し部将数十人と緄と親しい者を殺したが、總は毒を盛った飲料を濟に進めさせた。濟の死後、帰還中の緄も總の偽の父命により杖殺され、總が軍務を握った。朝廷は事情を知らぬまま節鉞を授け、總は檢校司空にまで進んだ。
- 王承宗が再び抗命すると、總は武強県を攻めつつ日和見で朝廷からの供給・恩賞を引き出した。呉元濟・王承宗・田弘正の情勢下、憲宗は姑息策として總に同中書門下平章事を加えた。呉元濟捕縛・李師道誅殺・王承宗の憂死・田弘正の鎮州入りが続くと、總は孤立を恐れ自安の策を模索。父兄殺害の罪業に苦しみ数百の僧を官署後に置いて日夜懺悔させ、公務の合間は道場に籠り他室では恐れて眠れぬほどであった。晩年は恐怖に耐えかね出家を決意、判官張臯を留後とし、落飾して朝廷に帰順を申し出た。穆宗は天平軍節度使を授けたが、落飾を知り紫衣と「大覺師」の号を賜った。總は易州境で急死し、輟朝五日、贈太尉、絹布一千五百段・米粟五百石を賻された。
- 王承宗討伐で父濟が自ら出征を願い城邑を攻めるも病で成らなかった経緯を継ぎ、總は父の遺志を継いで河朔の旧風を一新しようとした。長慶初、しばしば入朝と領地分割を上表し、幽・涿・營州を張弘靖、瀛・漠州を盧士玫、平・薊・媯・檀州を薛平にそれぞれ分治させ、麾下の宿将を悉く朝廷に推挙して爵禄への期待を持たせようとしたが、穆宗と宰相崔植・杜元穎は范陽を速やかに得ることのみを重視し弘靖に一括統治させ、瀛・漠のみ観察使を置くにとどめた。總の推挙した将校(硃克融ら)は京師で長く放置され困窮し、結局本軍に戻されたが不満を募らせ、これが後の叛乱の一因となった。
- 總は土地を朝廷に帰した際、弟の約や子ら十一人に郡符を与え、五人に命服、六人を朝班・宿衛に登用させた。