舊唐書卷一百四十三 列傳第九十三 硃滔

僭号と朝廷への帰順

  • 滔は硃泚の弟。硃希彩は同姓の滔を愛し腹心の親兵を任せた。泚が節度使となると滔は精兵三千を率い京師防衛の先陣を志願した。范陽は表向き恭順ながら実は倔強であったが、泚が最初に臣節を示したため代宗は喜び、滔を長安通化門から入り開遠門へ出す凱旋の礼で迎え、三殿で対面し慰労した。滔は「泚は統御・方略で自分に勝るが、自分は二十八歳で先に天顔を拝した点で勝る」と応じ、代宗をさらに喜ばせた。
  • 大曆九年、泚が朝覲し吐蕃征討への留任を願い出たため、滔は試殿中監・幽州盧龍節度留後・兼御史大夫となった。田承嗣の乱では李寶臣・李正己らと磁州の囲みを解いた。建中二年、李寶臣死後に子の惟嶽が抗命すると、滔は張孝忠と共に討伐し束鹿で惟嶽を大破。深州包囲中、惟嶽・田悅の援軍一万余に対し、滔は帛で獅子の姿を作らせ猛士百人に被せ鼓噪して突撃させ賊を混乱させ大破、惟嶽は営を焼いて逃げた。功により檢校司徒・幽州盧龍軍節度使(德・棣二州を隷属)。だが朝廷が深・趙二州を康日知・王武俊に与えたことに滔・武俊は共に怒り、滔は武俊を誘い共に叛くこととなった。馬燧が魏州で田悅を包囲すると滔・武俊は連兵で救援し愜山で李懷光を破った。
  • 三年十一月、滔は「大冀王」を僭称し百官を偽設、李納・田悅・王武俊と並び王を称し南の李希烈と結んだ。興元初、朱泚が京師を占拠し滔の勢威に頼ろうとする中、田悅は武俊に「朱滔は心が険しく信頼できぬ」と説き、両者は朝廷への帰順に転じた。
  • 朱泚は滔を皇太弟に立て、回紇を重賂で誘い魏・貝を攻めた後に関中へ入る計画を進めさせた。興元元年正月、滔は燕薊の兵と回紇雑虜五万を号して南河に次し貝州を包囲。三月、田緒が田悅を殺し魏州が乱れると、滔は大将馬實に魏州を攻めさせ王莽河に布陣した。徳宗は二凶の連携を懼れ王武俊に平章事を授け李抱真と共同で滔を討たせた。四月、恆・潞両軍が涇城北で合流、抱真は自ら二百騎で武俊軍に入り盟約を結び義兄弟となった。
  • 五月五日、滔の将馬實・盧南史が回紇・契丹を率いて挑戦、武俊配下の趙珍・王虔休が対応し、武俊父子自ら回紇・契丹部隊に当たった。回紇は緒戦の勢いで武俊陣を突破したが、武俊は騎を止めて動かず退く回紇に反撃、父子で急追し三百騎を捕獲。滔軍は乱れ東走し数万が討たれた。夜、滔は残兵千人で徳州へ逃げ、瀛州で敗戦の責を負わせ騎将蔡雄・楊布や、必勝を予言した陰陽人尹少伯までも殺した。
  • 六月、李晟が京城を回復し朱泚・姚令言は死んだ。滔は幽州に戻ったが武俊に攻められ危機に陥り、朝廷に謝罪の上表をした。九月、徳宗は「誠意が篤ければ罪を赦す」との詔を下したが、貞元元年、四十歳で在職のまま卒し贈司徒。