舊唐書卷一百三十一 姚令言・張光晟・源休・喬琳・蔣鎮・洪經綸・彭偃

姚令言・張光晟・源休・喬琳・蔣鎮・洪經綸・彭偃の七人はいずれも建中四年の涇原の乱に関わり、朱泚の偽政権に与して非業の死を遂げた、または与しながらも節を守ろうとした者たちである。姚令言は乱の首謀者として朱泚を擁立し、張光晟は当初帰順しながら最後は誅殺され、源休は謀主として朝臣を誅辱に追い込み自らも殺された。喬琳・蔣鎮は老臣・清名の士でありながら賊に捕らえられて偽官を受け、洪經綸・彭偃も各々の失策や与同によって乱に連座した。史臣はこれらを一様に節を汚した小人と断じている。

年表(7件)

姚令言――涇原節度使から朱泚擁立の首謀者へ

  • 姚令言は河中の人。若くして募兵に応じ卒伍から身を起こし、涇原節度使馬璘に仕えた。戦功を重ねて金吾大将軍同正に累進し、衙前兵馬使となり、試太常卿・兼御史中丞に転じた。
  • 建中元年(780年)、涇原節度留後の孟暤は自ら文吏出身で軍旅を好まず、しばしば令言の謹厳さを上奏して推薦し、令言はやがて四鎮北庭行営涇原節度使・涇州刺史・兼御史大夫に任じられた。
  • 建中四年(783年)、李希烈が反し汝州を陥落させたため、朝廷は哥舒曜に襄城で迎撃させたが、希烈軍数万に包囲され危急となった。十月、令言は本鎮の兵五万を率いて援軍に赴くよう詔された。
  • 涇原の兵は子弟を多く伴い京師で厚賞を得ることを望んでいたが、出発しても何も賜らなかった。京兆尹王翃が犒軍を行ったが粗末な食であったため兵士は激怒し、「我らは父母妻子を棄てて難に赴くのに食すら満足に得られぬ。国庫の瓊林・大盈の財宝を取らずしてどこへ行くのか」と叫んだ。滻水に至り兵は反転し、鼓噪して引き返した。令言は「東都では厚賞の約があった、軽挙するな」と説いたが聞かれず、槍先を向けられて退かざるを得ず、急ぎ事態を上奏した。徳宗は繒彩二十車を賜って慰撫させたが、軍勢は収まらず、街の人々は逃げ惑い、乱兵は「間架税は取らぬから逃げるな」と叫んだ。徳宗は普王と学士姜公輔を撫慰に遣わしたが、賊はすでに宮門を破り丹鳳楼下に陣した。この日、徳宗は急遽出奔し、賊は府庫の財物を奪い尽くした。
  • 当時、太尉朱泚は鎮を罷免され晋昌里の邸に居た。乱兵は「朱太尉を主に迎えれば大事は成る」と謀り、令言は騎兵を率いて泚を晋昌里に迎えた。泚は当初躊躇したが、諸校が集まると邸から炬火を掲げて含元殿に入り、僭号した。泚は令言を侍中とし、源休とともに賊の政事を任せた。令言は逆乱の先鋒として賊に尽力し、宗室を害し奉天を包囲する首謀となった。
  • 賊の宴席で令言は源休と功を論じ、自ら蕭何になぞらえたが、源休は「帷幄の謀は私こそ蕭何に劣らぬ、お前は曹参が相応だ」と応じ、賊廷にいた朝士たちはこれを聞いて源休を「火迫酇侯(あわてん坊の蕭何)」と嘲笑した。
  • 朱泚が敗れると、令言は張廷芝とともになお万人の兵を率い、泚に従って吐蕃へ入ろうとした。涇州に至り田希鑒を頼ろうとしたが、希鑒は偽って礼を尽くして誘い出し、泚とともに斬首して朝廷に献じた。

張光晟――節度使の恩人から朱泚の宰相、そして誅殺へ

  • 張光晟は京兆盩厔の人で、行間から身を起こした。天宝末、哥舒翰が潼関で敗れた際、大将王思礼の乗馬が流矢に当たって斃れると、騎卒であった光晟は下馬して自らの馬を思礼に与えた。思礼は姓名を尋ねたが光晟は告げずに退き、思礼は密かにその容貌を記憶し、人を遣って捜させた。
  • のち思礼は河東節度使となり、その偏将辛雲京が代州刺史のとき讒毀に遭い思礼の怒りを買った。雲京の麾下にいた光晟は、自らが思礼に恩があることを密かに告げ、旧恩を口にせず司空に会って雲京の窮地を解こうと申し出た。太原に赴き思礼に謁見すると、思礼はすぐに見覚え、「なぜこれほど遅く会いに来たのか」と感泣し、義兄弟の契りを結んだ。光晟が雲京の事情を述べると、思礼は雲京を赦した。光晟はその日のうちに兵馬使に抜擢され、田宅・縑帛を厚く賜り、累って特進・試太常少卿となり心腹として重用された。雲京が河東節度使になると光晟は代州刺史に任じられた。
  • 大暦末(779年頃)、単于都護・兼御史中丞・振武軍使に遷った。代宗は密かに「北方の異民族が久しく跋扈している、対策を考えよ」と諭した。光晟が鎮に至ると威令が行われた。
  • 建中元年(780年)、回紇の突董梅録らが雑種胡らを率いて京師から帰国する際、金帛を輦車に満載して往来した。光晟は荷が多いのを怪しみ、駅吏に長錐で刺させたところ、いずれも京師から誘拐した婦人であることが判明した。光晟は突董以下を宴に招き、酒宴の最中に伏兵で捕らえて悉く殺害した。死者千余人、二人の胡人のみを帰国させて復命させた。婦人らを送り返し、糧を与えて京師に戻し、金帛を没収して軍士に賞与した。のち回紇が使者を送って抗議したため、朝廷は蕃情を刺激したくないとして光晟を右金吾将軍に召還したが、回紇の怨みは尽きず睦王傅に降格され、太僕卿に転じたが、才を負って不遇を嘆いていた。
  • 朱泚の僭逆に際し、光晟は偽の節度使兼宰相に任じられた。泚の軍がしばしば敗れると、精兵五千を光晟に配し九曲に営した。光晟は密かに李晟に通じて帰順の意を示し、晟が苑に進軍すると、光晟は泚に西へ逃れるよう勧め、数千の兵で泚を城外へ送った後、衆を率いて晟に降った。晟はその誠意と才を愛して用いようとし、私邸に帰らせて特赦を上奏した。しかし大宴の席で華州節度使駱元光が「反虜と同席できぬ」と罵って退席したため、晟はやむなく光晟を私邸に軟禁し、のち詔によって罪状は赦されぬとされ斬られた。

源休――涇原の乱の謀主として誅殺される

  • 源休は相州臨漳の人で、京兆尹源光輿の子。幹局をもって監察御史・殿中侍御史・青苗使判官を歴任し、虞部員外郎に遷り、潭州刺史として出て、主客郎中として入り、給事中・御史中丞・左庶子に遷った。妻は吏部侍郎王翊の女であったが、些細な諍いで離縁し、妻の一族が訴えたことで御史台の審理により除名され、溱州に流された。のち岳州に移された。
  • 建中初、宰相楊炎は京兆尹厳郢の威名を妬み、王翊の甥婿である郢に隙があると聞いて、休を流人から京兆少尹に抜擢し郢の過失を探らせようとした。しかし休は郢と親しくなり、炎は怒って休を本官のまま御史中丞に兼ね回紇への使者に充てた。
  • 休が振武に至った時、軍使張光晟は既に回紇の突董らを殺していた。朝廷は当初回紇との通使を絶とうとしたが、久しくして休に突董・翳密施大小梅録ら四人の屍を返還させることとした。突董は武義可汗の叔父であった。屍が至ると可汗は宰臣以下を彩服車馬で迎えさせたが、宰相頡於思迦は大帳に座し休らを帳外の雪中に立たせて突董殺害の理由を詰問した。休は「突董らは張光晟との諍いで死んだ、天子の命ではない」と答えたが、幾度も殺されかけ、悪罵を受け、五十余日も薄い供応のまま留め置かれてようやく帰されることとなった。可汗は「我が国人は皆汝を殺したがるが私はそうしない。血で血を洗う真似はやめて水で洗おう。ただし馬代の絹百八十万匹は速やかに返せ」と告げ、散支将軍康赤心らを従わせて休を帰らせた。休はついに可汗に会えぬまま、帛十万匹・金銀十万両を馬代として支払わせた。休は危難を経て帰還したが、宰相盧杞は休が復命の際に口才で恩寵を得ることを恐れ、太原に至る前に急ぎ光禄卿に任じてしまった。休は使者としての恩賞が薄いことを常に怨んでいた。
  • 涇原の兵が叛き朱泚を主に立てた際、当初は太尉と称するのみで、泚に謁見する朝官は皆鑾駕を迎えるよう勧めたが泚の意に合わず退けられた。休が至ると人を避けて長時間語り、成敗を論じ符命を称して僭号を勧めた。泚は喜んで休を宰相とし度支を判せしめた。休は謀主となり、兵食・軍資・人事のすべてを取り仕切った。当時の人は「源休の逆は朱泚より甚だしい」と評した。朝廷の大臣で逃げ切れなかった者の多くが休に誘い出されて誅辱に遭ったのは、休の仕業であった。また泚に宗室の除去を勧め、万年県の賊曹尉楊偡にその処断を専任させ、諸王の子孫で殺害された者は数え切れなかった。
  • 泚が敗走すると休は寧州まで従い、泚の死後は鳳翔に逃れたがその部曲に殺され、首は朝廷に献じられた。休の三子はともに東市で斬られ、家は没収された。

喬琳――老臣が朱泚に仕え誅殺される

  • 喬琳は太原の人。若くして孤貧の中で学に志し、文詞で知られた。天宝初、進士に挙げられ成武尉に補せられ、興平尉に累進した。朔方節度使郭子儀に掌書記として招かれ、監察御史に任じられた。琳は洒脱で滑稽を好み、僚列を侮り礼を欠くことが多かった。同院の御史畢耀と嘲り合ったことから公事で互いに訴え合い、巴州員外司戸に貶された。のち南郭令に起用され、殿中侍御史に転じ、山南節度使張獻誠の行軍司馬を務めた。使命が終わると剣南東川節度使鮮于叔明の判官となり、検校駕部郎中・果綿遂三州刺史・兼御史中丞に転じ、大理少卿・国子祭酒として入り、懐州刺史として出た。
  • 琳は張渉と親しく、徳宗が東宮にあった頃、渉が侍読を務めていた。即位後、政事をしばしば渉に諮問し、渉は琳の識度・材略を盛んに称えたため、琳は御史大夫・平章事に拝された。しかし琳はもともと粗野な人柄で年老いて耳疾もあり、応対がしばしば的外れであった。宰相の位にあること八十余日で工部尚書に転じ知政事を罷め、迎皇太后副使を加えられた。
  • 朱泚の乱に際し奉天への扈従に従い、吏部尚書・太子少師に転じた。再び梁・洋へ幸する際、盩厔に至って馬が疲れたことを理由に遅留し、徳宗は琳の老齢を思いやり、御馬一匹を賜り慰諭を厚くしたが、琳は老病を理由に山越えを辞退した。徳宗は落胆しつつも策を賜り「良図を尽くせ、卿とはここで別れる」と告げた。数日後、琳は髪を剃って僧となり仙遊寺に留まったが、賊泚は聞きつけて数十騎を送り京城へ連れ戻し、偽の吏部尚書とした。源休は公服を着せ肉食を饋わせたが、琳は僧であることを理由に固辞した。琳が賊中の吏部を掌る間、選人が「この官位は不穏当ではないか」と尋ねると、琳は「そなたはこの選出そのものが穏当だと思うか」と答えたという。
  • 官軍が京師を収復すると、琳は極刑に処されるはずであったが、七十余歳であることを李晟が憐れみ減死を上奏した。しかし徳宗は琳が要職を歴任しながら臣節を欠き、逆命を受けて悖慢な言も聞かれたとして赦さず、斬を命じた。琳は刑に臨み「喬琳は七月七日に生まれ、この日に死ぬとは、これも天命か」と嘆いた。

張渉――侍読から宰相の推薦者へ

  • 張渉は蒲州の人で、代々儒者の家柄。国学に依って諸生に講説し、国子博士に遷り、文にも巧みで、有司に日に万言を試させるほどであったため「張万言」と呼ばれた。徳宗が東宮にあった頃、渉から経を受けていた。即位の夕、渉を宮中に召し庶政を諮り、大小の事すべてを相談した。翌日、翰林に置かれ恩礼は篤く、他に比類がなかった。博士から散騎常侍に遷った。
  • 徳宗が宰輔を選ぶにあたり賢を求めて常道によらぬ人事を行おうとしたため、渉は懐州刺史喬琳を宰相に推し、徳宗は疑わずこれを任じたが、天下の人々はこれを聞いて愕然とした。数ヶ月後、琳は職に堪えずとして罷免され、徳宗はこれにより渉を疎んじた。まもなく前の湖南都団練使辛京杲の贓罪に渉が絡んでいたことが発覚し、詔して「師を尊ぶ道・故旧を議する法により罪は掩うが、賄賂による交通は世間を驚かせた。長く親重してきただけに惜しい。田里に放ち帰らせよ」とされた。

蔣鎮――涇原の乱で偽宰相に立てられる

  • 蔣鎮は常州義興の人で、尚書左丞蔣洌の子。兄蔣鍊とともに文学によって進み、天宝末、賢良に挙げられ、左拾遺・司封員外郎を累授され諫議大夫に転じた。
  • 戸部侍郎・判度支の韓滉が「河中の塩池に瑞塩が生じたのは土徳の瑞祥である」と上言した際、徳宗は秋の長雨が続いていたため瑞祥を疑い、鎮を馳駅させて検分させた。鎮は滉と同じ見解を奏上し賀表を進め、史館への上奏と神祠設立・「宝応霊慶池」の号を請うたが、実際には長雨が続き民家を多く壊し、塩池も潦水に浸されて味は苦かった。韓滉は塩戸の減税を恐れ、雨が池を損なっていないと偽って奏上し瑞塩が生じたと称したもので、鎮はこれを庇って詐りを飾り、識者に恥じられた。給事中・工部侍郎に転じ、簡素倹約で知られた。
  • 鎮の妹婿源溥は源休の弟で、姻戚のよしみから休と親交があった。涇原の兵が叛いた際、鎮は逃れて夜に鄠県西に至ったが馬が躓いて溝に落ち、足を傷めて進めなくなった。兄蔣鍊は既に源休とともに賊の偽官を受けていた。鎮の従僕が鍊のもとへ逃げ帰り鎮が鄠にいることを告げると、鍊と源休は喜び泚に告げた。泚は日頃から鎮の清名を慕っており、騎兵二百を鄠県西に遣わせて捕らえ、偽の宰相に任じた。鎮は逃れられぬと知ると常に憂え、刃を懐にして自裁しようとしたが兄鍊にたびたび止められた。数日後、再び逃亡を謀ったが臆病さのため果たせなかった。しかし源休が泚に衣冠の士を大量に殺すよう頻りに勧めた際、鎮は力を尽くして諫め、多くの人命を救った。
  • 事後、兄鍊らとともに偽職に就いた罪により東市西北街で斬られた。
  • 鎮の父蔣洌、叔父蔣渙は、安禄山・史思明の乱に際してともに偽職を受けたが、家風が整っていたことで士大夫に称された。鎮兄弟も教義礼法を己の任としていたが、禄を貪り死を惜しんで節を汚し、天下の笑いものとなった。

洪經綸――軍を削減し田悦の離反を招く

  • 洪経綸は建中初、黜陟使となった。東都に至り魏州の田悦が七万の食糧兵を養っていると聞き、時機を弁えず、まず符をもって四万人の兵を止め帰農させた。田悦は偽って命に従い符に従って罷免したが、罷免された兵士を集めて「お前たちは軍旅にあって父母妻子を養っているのに、黜陟使に罷免されて衣食をどう得るのか」と激怒させ、大いに哭かせた。悦は家財衣服をことごとく出して厚く与え、各々の部伍に戻させたので、兵士たちは以後叛心を堅くし、経綸はこれにより罷免された。朱泚の反に際しては偽の太常少卿に任じられた。

彭偃――排仏排道の議論と朱泚政権への与同

  • 彭偃は若くして俊才を負い進取に鋭く、当路の者に抑えられ不満を色に表した。大暦末、都官員外郎となった。
  • 当時、剣南東川観察使李叔明が「仏・道二教は時に益無く、粗く淘汰すべきである。東川の寺観は上寺に僧二十一人、上観に道士十四人を留め、以下七ずつ減じ、精選の道行者のみを残し他はすべて還俗させ、無名の蘭若・道場は廃止すべきである」と上言し、徳宗は「叔明の奏は天下の通制とすべきで剣南一道に限らない」として尚書に集議させた。彭偃は次のように議を献じた。
  • 王者の政は人心を変えることを上とし、人心に因ることを次とし、変えも因りもせず旧習を守るのを下とする。独見の明なくして非常の事は行えない。当今、道士は名ばかりで実がなく、乱政への影響は軽いが、僧尼はきわめて雑駁である。仏教が中国に伝わって以来、聖の教えから離れること久しく、比丘は粗法しか行わず、後漢から陳・隋にかけて僧の廃滅は幾度もあり、坑殺されることさえあった。前代の帝王が僧道の善を憎んだのではなく、その乱すところが甚だしかったからである。仏の教えは本来清浄無為であり、色をもって見るのは邪法である。今出家する者の多くは無識下劣の輩で、征徭を避け殺盗淫を犯す者も少なくない。叔明の意は善いが、奸吏の詆欺により去る者と留まる者が実情と合わず、国に益なく奸を息めることもできず、人心を変えも因りもせず強制するだけでは効果が遠い、と論じた。
  • また、天が人を生むには必ず職があり、遊食は王制の禁ずるところであり、才ある者は爵禄を受け、不肖の者は租税を出すのが古の常道であるとし、今天下の僧道は耕さず織らずして衣食し、危言険語で愚者を惑わしている、一僧の衣食は年におよそ三万に上り五丁の産にも及ばず、天下の僧の数に照らせばその費えは莫大であると論じ、僧道で五十歳未満の者に絹四疋、尼・女道士で五十歳未満の者に絹二疋を毎年課し、雑色の役は百姓と同じくし、才智ある者は仕官させ、還俗を望む者は聴すべきであると提案した。ただ役に就き課を納めれば僧であることに支障はなく、その税収は現行の租賦の三分の一を下らず、国は富み民の害は除かれると述べた。五十歳を過ぎた者は免除すべきとし、孔子の「五十にして天命を知る」、列子の「班白(白髪交じり)ならざれば道を知らず」を引き、五十歳になれば嗜欲は衰え、出家せずとも道に近いと論じた。この令が行われれば僧道の還俗を望む者は半数を超え、残る老いて精進する者は皆人の師となり、道・釈二教はいっそう明らかになると結んだ。
  • 議者はこれを是とし、徳宗もその言を善しとしたが、大臣は二教が久しく行われ列聖が奉じてきたことを理由に急変を望まず、甚だしきものだけを除くよう主張したため、議は行われなかった。
  • 偃は才地に応じて文誥を掌るべきであったが、性急な出世欲が時論に抑えられ鬱々として不遇であった。涇原の乱で扈従に及ばず、田家に匿われていたところを賊に捕らえられた。朱泚は元より彭偃を知っており、得たことを大いに喜び、偽の中書舎人に任じた。僭号の辞令はすべて偃が起草した。賊が敗れると、偽の中丞崔宣、賊将杜如江・呉希光ら十三人とともに李晟に捕らえられ、皆安国寺前で斬られた。

【贊】

史臣曰く――陰陽が分かれて生死があり、命の長短は賢愚を問わず一様である。君子は険夷の際にあっても節を変えず、小人は逆順の道理に暗く刑に陥る。鴻毛と泰山ほどの違いがあるのは、まさにこの理による。姚令言は遠く師を率いながら真っ先に叛逆をなし、張光晟は初め重用されながら危難に臨んで誠を尽くした、源休は士流でありながら元凶よりも甚だしく、喬琳は真主に巧言を弄しながら偽官に甘んじ、蔣鎮は禄を貪って節を汚した。いずれも小人である。洪経綸の類は論じるに足りない。

贊に曰く――時は逆順を争い、命は死生に繋がる。君子は節を守り、小人は正しく刑せられる。