舊唐書卷110 列傳 李光弼・王思禮・鄧景山・辛雲京
李光弼――出自と生い立ち
- 李光弼は營州柳城の人。先祖は契丹の酋長。父の楷洛は開元初年に左羽林將軍同正・朔方節度副使となり薊國公に封じられ、勇猛で知られた。
- 光弼は幼くして節操を持して行動し、騎射に長け、班固の『漢書』を読みこなした。若くして従軍し、厳格で大略があり、左衛郎から身を起こした。父の喪に服し、喪が明けるまで妻の部屋に入らなかった。
河西・朔方での台頭
- 天寶初年、左清道率兼安北都護府・朔方都虞候に累進。天寶五載、河西節度の王忠嗣が兵馬使に補し、赤水軍使とした。忠嗣は光弼を厚遇し「光弼は必ず我が地位に居るだろう」と言い、辺境で名将と称された。
- 天寶八載、節度副使となり薊郡公に封ぜられる。十一載、單於副使都護を拝命。十三載、朔方節度の安思順が副使・知留後事として奏上。思順はその才を愛し娘を娶わせようとしたが、光弼は病と称して辞退した。隴右節度の哥舒翰がこれを聞いて奏上し、光弼は京師に還ることができた。
安祿山の乱と河北平定
- 安祿山の乱で封常清・高仙芝が戦に敗れ、潼関で斬られた。哥舒翰に賊を防がせたが、まもなく郭子儀を朔方節度に任じ、河西で兵を収めさせた。玄宗は良将を求め、河北・河東の事を子儀に相談すると、子儀は光弼を推薦した。
- 天寶十五載正月、光弼を雲中太守・攝御史大夫・河東節度副使・知節度事とした。二月、魏郡太守・河北道采訪使に転じ、朔方の兵五千を郭子儀の軍に合わせ、東に井陘を下って常山郡を収めた。賊将史思明が数万の兵で常山を救援に来たが、追撃してこれを破り、槁城など十余県を進んで収め、南に趙郡を攻めた。
- 三月八日、光弼は范陽長史・河北節度使を兼ね、趙郡を抜いた。安祿山の反乱以来、常山は戦場となり死者が野を覆っていたので、光弼はその屍に酒を注いで哭し、賊に幽閉された者を解放し、賊を平定して人心を慰めることを誓った。
- 六月、賊将の蔡希德・史思明・尹子奇と常山郡の嘉山で戦い、大いに賊軍を破って首級一万を斬り四千を生け捕りにした。思明は髪を乱し裸足で博陵に奔った。河北で帰順する者は十余郡に及んだ。
太原の攻防
- 光弼は范陽が安祿山の本拠であることから、まずこれを断とうとしたが、哥舒翰が潼関で敗れ玄宗が蜀へ行幸すると人心は動揺した。肅宗は霊武で兵を整え、中使劉智達を遣わして光弼・子儀を行在に召し、光弼を戸部尚書・兼太原尹・北京留守・同中書門下平章事とし、景城・河間の兵五千を率いて太原へ赴かせた。
- 当時、節度の王承業は軍政が乱れており、詔で御史崔眾に河東の兵権を移させた。崔眾は承業を侮り、甲を着け槍を持って承業の庁に乱入して弄んだこともあった。光弼はこれを聞いて不満を抱いていた。崔眾が兵を光弼に引き渡す際、光弼が出迎えても旗を並べたまま避けなかったため、光弼は無礼を怒り、また即座に兵権を渡さなかったことから捕縛させた。
- 折しも中使が来て崔眾を御史中丞に任じる勅を懐にしていたが、光弼は「眾には罪があり、すでに捕えた」と告げ、「今なら侍御史を斬るだけで済むが、勅命を宣すれば中丞を斬ることになり、宰相に任ぜられればその宰相を斬ることになる」と言った。中使は恐れてその勅を取りやめて還った。翌日、光弼は兵で崔眾を囲み、碑堂の下で斬った。これにより三軍にその威が轟いた。その親族には弔問させた。
太原防衛戦
- 乾元二年(757年)、賊将の史思明・蔡希德・高秀巖・牛廷玠ら四人の偽帥が十余万の兵を率いて太原を攻めた。光弼は河北で苦戦を重ね、精兵はことごとく朔方へ赴いていたため、麾下は寄せ集めの兵で一万に満たなかった。
- 史思明は諸将に「光弼の兵は寡弱、指を折るほどの間に太原を取り、鼓を鳴らして西へ進めば河隴・朔方を図れ、後顧の憂いはない」と語った。光弼配下の将士はこれを聞いて恐れ、城の修築を提案したが、光弼は「城は周囲四十里、賊がまもなく至ろうというときに今から工事を興せば、敵を見る前に自ら疲弊するだけだ」と述べた。
- そこで自ら士卒・百姓を率いて外城に壕を掘って固め、数十万の塹を作らせたが、誰もその用途を知らなかった。賊が城外を攻めると、光弼は城内に塁を増築させ、崩れればすぐ補修した。城外で罵る賊兵には地道を掘らせて一夜で捕らえたため、以後賊は行軍の際に足元を見て、城に近づかなくなった。強弩や投石で撃つと、賊の勇猛な将兵の死者は十のうち二三に及んだ。城中の老若は皆その勤勉さと知略に服し、弱兵も気力を得て出撃を願うほどになった。
- 史思明はこれを察知して先に帰り、蔡希德らに攻めさせた。一月余り経って我が軍が怒り賊が怠ったところで、光弼は決死の士を率いて出撃し、大破して首級七万余を斬り、軍資器械はことごとく捨てられた。賊が到来してから遁走するまで五十余日、光弼は城の東南隅に小さな幕を張って宿泊し、急があればすぐ応じ、府門を通っても振り返ることがなかった。賊が退いて三日、軍事を片付けてから初めて府邸に帰った。
- 検校司徒に転じ、清夷・横野などの軍を収め、賊将李弘義を捕えて連れ帰った。詔があり、光弼を守司空・兼兵部尚書・中書門下平章事とし、魏國公に進封し食実封八百戸を与えるとされた。
河陽の戦い
- 乾元元年(758年)、関内節度使の王思禮と共に入朝し、朝官四品以上が出城して迎えるよう勅が下った。侍中に遷り鄭國公に改封される。
- 乾元二年(759年)七月、制詔により天下兵馬元帥趙王李系の副とし知節度行営事とされた。八月、幽州大都督府長史・河北節度支度営田経略等使を兼ねた。九節度の兵で安慶緒を相州に囲み、あと少しで陥落というところまで進んだ。
- 史思明が范陽から救援に来て糧道を絶ったが、光弼は自ら士卒の先頭に立ち苦戦の末これに勝った。しかし大風で天が暗くなり、諸将はそれぞれ兵を引いて略奪を働いたが、光弼の部隊だけは崩れなかった。東京留守崔圓・河南尹蘇震は南に襄陽へ奔り、郭子儀は谷水に兵を屯した。
- 史思明はこの機に安慶緒を殺して自ら偽位に即き、河南で兵を放った。光弼は太尉・兼中書令に加えられ、郭子儀に代わって朔方節度・兵馬副元帥となり、東方の軍事を委ねられた。左廂兵馬使の張用済は子儀の寛容さに慣れ光弼の号令を恐れて諸将と異議を唱え軍を留めようとしたが、光弼は数千騎で汜水県に赴き、用済が単騎で出迎えるとその場で轅門で斬った。諸将は畏れ服し、都兵馬使の仆固懐恩は先んじて到着した。
洛陽から河陽への転進
- 初め光弼は汴州に駐屯していたとき、史思明が全軍で迫っていると聞き、許叔冀に「大夫がこの城を十日守れれば、必ず兵を率いて救援に来る」と言い、叔冀は承諾した。しかし光弼が東京に戻ると、思明が汴州に至り叔冀は戦に不利で董秦・梁浦・劉従諫らと共に思明に降伏した。賊勢は盛んで、梁浦・劉従諫・田神功らを江淮に派遣し「土地を得れば各自に玉帛を積んだ船二艘を貢がせる」と告げ、思明は勝ちに乗じて西進した。
- 光弼は軍を整えて徐行し、洛陽に至って留守の韋陟に「賊は鄴下の勝ちに乗じ再び王畿を犯そうとしている。速戦は不利だ。洛城は防備の地ではない、いかにすべきか」と問うた。陟は「陝州に兵を加え潼関に退いて険を頼りに待てば、その鋭鋒を挫くに足る」と答えたが、光弼は「それは兵家の常套に過ぎず、奇策ではない。両軍が相争うときは尺寸の地を争うことこそ肝要。今五百里を委ねて顧みなければ賊勢を張るだけだ。もし軍を河陽に移し、北に澤潞・三城を頼りに対抗すれば、勝てば擒にでき、敗れれば自ら守れる。表裏相応じ賊を西に侵させない、これが猿臂の勢というものだ」と述べた。
- 陟は答えられなかった。判官の韋損が「東京は帝宅、侍中はなぜ守らないのか」と問うと、光弼は「もし洛城を守れば汜水・崿嶺にも人を配さねばならぬ。君は兵馬判官としてそれができるか」と返し、留守・河南尹および留司官・坊市の住民に城を出て賊を避けるよう命じ、城を空にして軍士に油・鉄などの物資を運ばせ、戦守の備えとした。
- 当時史思明はすでに偃師に至っており、光弼は全軍を河陽に赴かせた。賊はすでに洛城に至り、光弼の軍はやっと石橋に至ったところであった。日暮れに炬火を灯してゆっくり進み、賊とすれ違いながらも賊は敢えて犯さなかった。夜、河陽三城に入り守備を整え号令を厳しくし、士卒と苦楽を共にして皆決死の覚悟を誓った。賊は光弼の威略を恐れ白馬寺に兵を留め、南は百里を出ず西は宮闕を犯さず、河陽の南に月城を築き壕を掘って光弼に対抗した。
- 十月、賊が城を攻めた。中潬城の西で逆党五千余を大破し首級千余を斬り、五百余人を生け捕り、溺死する者は大半に及んだ。
中潬城・北城の激戦
- 光弼は李抱玉に「将軍は私のために南城を二日守れるか」と問うと、抱玉は「期限を過ぎたらどうする」と問い返し、光弼は「期限を過ぎて救援が至らねば見捨てるのみ」と答えた。抱玉は命を受け南城を守り、陥落しそうになると賊を欺いて「糧が尽きたので明日降伏する」と告げた。賊はこれを喜んで軍を収めて待ったが、抱玉はその隙に守備を修復し、翌日は堅く守って戦を求めた。賊は欺かれたと怒り急襲したが、抱玉は奇兵を出して表裏から挟撃し多数を殺傷、賊帥周摯は軍を率いて退いた。
- 光弼は自ら中潬城に陣を構え、城外に柵を設け、柵外に幅・深さとも二丈の大きな塹を掘らせた。周摯は南城を捨てて中潬に兵力を集中した。光弼は荔非元礼に精鋭を羊馬城に出させて賊を防がせた。光弼は城の東北角に小さな紅旗を立てて賊軍を見下ろした。賊は大軍を恃んで城に迫り、木鵝・蒙沖・闘楼・橦車を積んだ車二台を後方に従え、兵に塹を埋めさせ三方それぞれ八道から兵を進め、塹に柵を開いてそれぞれ一門を設けた。
- 光弼が遠くから賊の逼る様を見て荔非元礼に「賊が塹を埋め柵を開いて兵を通しているのに構わないのはなぜか」と使者を送ると、元礼は「太尉は守るおつもりか、戦うおつもりか」と返し、光弼が「戦う」と答えると、元礼は「戦うなら賊が我らのために塹を埋めてくれているのだ、何を憂うことがあろう」と答えた。光弼は「私の智恵は君に及ばぬ、励んでくれ」と述べた。元礼は柵が開くのを待って勇士を率いて出戦し、賊軍を一気に数百歩退けたが、敵陣がなお堅いと見て軍を収めやや退き、賊を油断させてから攻めようとした。
- 光弼はこれを見て大いに怒り元礼を呼び軍令で処罰しようとしたが、元礼は「戦がまさに佳境なのに何を呼ぶのか」と答えた。しばらくして軍中に鼓を鳴らさせ柵門から一斉に打って出ると、賊は大潰した。
- 周摯は再び軍を整え北城に迫った。光弼は急ぎ兵を率いて北城に入り、城に登って「敵は多いが乱れて騒がしいだけで恐れるに足りぬ。正午には破ってみせよう」と述べ出撃を命じた。期限になっても決着せず、諸将に「これまでの戦でどこが最も堅くて攻めにくかったか」と問うと、「西北角」との答えに郝玉へ「行って攻めよ」と命じた。玉は「私は歩卒、騎兵五百を付けてほしい」と求め、光弼は三百を与えた。また「どこが最も堅いか」と問うと「東南隅」との答えに論惟貞を派遣したが、惟貞は「私は蕃将で歩戦を知らぬ、鉄騎三百がほしい」と求め、百を与えた。
- 光弼はさらに賜った馬四十匹を分け与え「お前たちは私の旗を見て戦え。旗の振りが緩ければ様子見でよいが、旗を三度地に着けるほど振れば全軍一斉に突入し、死力を尽くせ。退く者は容赦なく斬る」と命じた。郝玉が馬を馳せて賊に向かうと、一人の兵が槍で馬の腹を貫き数人を刺し続けたが、別の一人は賊に遭って戦わずに退いた。光弼は戦わなかった者を斬り、槍を振るった者に絹五百疋を賞した。
- まもなく郝玉が逃げ帰ってくると、光弼は驚いて「郝玉が退くとは、我が事は危うい」と述べ左右に玉の首を取れと命じた。玉は使者に「馬が矢を受けたのであり、敗れたのではない」と告げると、使者はこれを報告し、光弼は馬を替えさせて再び出させた。玉は馬を替えて再び突入し、決死の覚悟で前進した。
- 光弼が旗を連続して振ると三軍はそれを望んで一斉に進み、声は天地を動かし、一気に賊を大潰させ首級一万余を斬り八千余人を生け捕りにし、軍資器械・糧儲は数万を数え、陣中で敵将徐璜玉・李秦授・周摯を生け捕った。敵将安太清は懐州へ逃げ込んだ。史思明は周摯らの敗北を知らずなお南城を攻めていた。光弼は捕虜たちを河のほとりに引き出して見せしめとし数十人を殺して威を示すと、残りの者は恐れて河に飛び込み対岸へ逃げようとしたが、光弼はこれらを皆斬った。
- 光弼は戦に臨む前「戦とは危うい事、勝敗はこれにかかる。私は三公の位にあり、賊の手にかかって死ぬわけにはいかぬが、もし事が成らなければ死をもって続く」と述べていた。この戦いに臨んでも常に短刀を靴に忍ばせ決死の志を持ち、城上で西に向かい拝舞し、三軍を感動させた。賊が敗走した後、光弼は懐州を収め、思明が救援に来ると沁水のほとりで迎え撃ちまたこれを破った。城将安太清は力を尽くして守り一月余り陥落しなかったが、光弼は仆固懐恩・郝玉に地道から入らせ軍号を得させ、城壁に登って大呼させると我が軍も共に登り城は遂に陥ちた。安太清・周摯・楊希文らを生け捕り闕下に送り、即日懐州は平定された。この功により臨淮郡王に進爵し、実封は累加して一千五百戸に及んだ。
邙山の敗戦と再起
- 観軍容使の魚朝恩がしばしば賊を滅ぼせると奏上したため、朝旨は光弼に速やかに東都を収めるよう命じた。光弼はたびたび「賊の鋭鋒はなお鋭い、時機を待つべきで軽々に進むべきでない」と上表した。仆固懐恩もまた光弼の功を妬み密かに朝恩に付き従い賊を滅ぼせると言ったため、中使が督戦し光弼はやむなく軍を進め北邙山下に陣を布いた。賊は精鋭を挙げて戦い、光弼は敗れ軍資器械はことごとく賊の手に落ちた。
- 当時李抱玉も河陽を放棄しており、光弼は河を渡り聞喜に拠った。朝旨は懐恩の異心が敗戦を招いたとし、光弼を優詔して召した。光弼は河中から入朝して自ら罪を認めたが、詔でこれを許された。光弼は太尉を固辞し、開府儀同三司・侍中・河南尹・行営節度使に加えられ、まもなく再び太尉を拝命し、河南・淮南・山南東道・荊南等の副元帥を兼ね、侍中はもとのまま臨淮に鎮した。
- 史朝義は邙山の勝ちに乗じ申・光など十三州を侵し、自ら精騎を率いて宋州の李岑を囲んだ。将士は皆恐れ南して揚州を守ろうと願ったが、光弼は直ちに徐州へ赴いて鎮め、田神功を遣わしてこれを撃破させた。浙東の賊首袁晁が郡県を掠奪し浙東は大いに乱れたが、光弼は兵を分けて討伐し江左を平定し人心を安んじた。
晩年と死
- 光弼が臨淮に留まろうとしたとき、道中病を得て輿で運ばれていた。監軍使は袁晁が江淮を乱していることを理由に光弼の兵が少ないので潤州を保って鋭鋒を避けるよう求めたが、光弼は「朝廷は安危を私に託している。賊は強いといえ、我が軍の多寡を測れていない。もし不意を突けば自ら退くだろう」と言い、まっすぐ泗州へ向かった。
- 光弼がまだ河南に至らないうちに、田神功は劉展を平定した後揚府に逗留し、尚衡・殷仲卿は兗州・鄆州で相争い、来瑱は襄陽で命令に従わず、朝廷はこれを憂えていた。光弼が軽騎で徐州に至ると史朝義は退却し、田神功は急ぎ河南へ帰り、尚衡・殷仲卿・来瑱は皆その威名を恐れ相次いで朝廷に出頭した。
- 寶應元年(762年)、臨淮王に進封され、鉄券を賜り、凌煙閣に肖像を描かれた。
- 廣德初年(763年)、吐蕃が京畿に侵入し、代宗は天下の兵を招集する詔を発したが、光弼は程元振と不仲で、なかなか到着しなかった。十月、西戎が京師を犯し代宗は陝州へ行幸した。朝廷は光弼を頼みにしていたが嫌疑を恐れ、しばしばその母のもとに使者を送った。吐蕃が退くと光弼は東都留守に任じられ、その動静を窺われることとなった。光弼はこれを察知し、久しく待っても勅が来ないことを理由に徐州へ帰り、江淮の租賦を収めて自ら養おうとした。
- 代宗が京師に還った廣德二年(764年)正月、中使を遣わして宣慰させた。光弼の母は河中にあり、密詔で子儀に京師へ輿で送らせた。その弟の光進は李輔国とともに禁兵を掌り側近として重用され、太子太保・兼御史大夫・涼國公・渭北節度使とされ、上はますます厚遇した。
- 光弼は軍を厳格に統率し天下がその威名に服し、号令を発するたび諸将は仰ぎ見ることもできなかった。しかし魚朝恩の害を恐れて入朝せず、田神功らも命令に従わなくなり、恥じて病を得た。衙将孫珍を遣わし遺表を奉じて事情を陳べさせ、廣德二年七月、徐州で薨じた。時に五十七歳。朝廷は三日間政務を停め、太保を贈り武穆と諡した。
- 光弼は病篤くなったとき将吏が後事を問うと「私は久しく軍中にあり親の世話ができなかった。不孝の子となった、何を言うことがあろうか」と述べ、封じてあった絹布各三千疋・銭三千貫文を取り出して将士に分け与えた。部下は喪柩を護って京師へ帰った。代宗は中官の開府魚朝恩を遣わしその母を私邸に弔問させ、また京兆尹第五琦に喪事を監護させた。十一月、三原に葬られ、宰臣百官が延平門外で見送った。
- 母の李氏は数十本、長さ五六寸のひげがあったが、子の貴によって韓國太夫人に封ぜられ、二子はともに一品の節度使となった。光弼は十年の間に三度入朝し、弟の光進とともに京師にあった。光進は光弼と母を異にしたが孝悌の性を持ち、兄弟の旗が門に並び、美味を供して養い、邸宅を並べて開き往来して歓を尽くし、一時の栄華を極めた。
王思禮――出自と生い立ち
- 王思禮は營州城傍の高麗人。父の虔威は朔方軍将となり戦に習熟していることで知られた。思禮は若くして軍旅に習い、節度使王忠嗣に従い河西に至り、哥舒翰と共に押衙を務めた。翰が隴右節度使となると、思禮は中郎の周泌とともに翰の押衙となり、石堡城を抜いた功で右金吾衛將軍に任じられ、関西兵馬使・河源軍使を兼ねた。天寶十一載、雲麾將軍を加えられた。
- 十二載、翰が九曲を征したとき、思禮は期日に遅れ斬られそうになったが、使者が来て赦された。思禮はゆっくりと「斬るなら斬ればよい、なぜわざわざ呼び戻すのか」と述べ、諸将は皆その豪胆さを称えた。十三載、吐蕃の蘇毗王が塞に款じたため、翰に磨環川で応接するよう詔があり、思禮は落馬して足を痛め、翰は中使李大宜に「思禮は足を痛めてしまった、これからどうするのか」と述べた。
安祿山の乱での活躍
- 天寶十四載六月、金城太守を加えられた。安祿山が反すると哥舒翰が元帥となり、思禮を開府儀同三司・兼太常卿同正員に加え元帥府馬軍都將とし、事あるごとに思禮とだけ決した。十五載二月、思禮は翰に安思順の父元貞を殺す謀を進言し、紙の隔てに密語して楊國忠を誅すよう上表することを求めたが翰は応じなかった。さらに三十騎で楊國忠を劫掠し潼関へ担ぎ込んで殺すことを求めたが、翰は「それは私が反乱を起こすのと同じ、祿山の事とは関わりない」と答えた。
- 六月、潼関が失陥すると思禮は西の行在へ赴き、安化郡に至った。思禮は呂崇賁・李承光とともに軍旗の下に引き出され、堅く守らなかった責を問われ軍令に従うことになった。李承光は救われず斬られ、思禮・崇賁は赦されて房琯の副使となった。便橋の戦いでも不利であったが関内節度使に任じられ、まもなく武功を守らせられた。
- 賊将安守忠・李歸仁・安泰清が来攻すると思禮は兵を退いて扶風を守った。賊兵は分かれて大和関に至り、鳳翔まで五十里に迫った。王師は大いに驚き鳳翔は戒厳となり、中官・朝官は皆妻子を避難させ、上は左右巡御史虞候にその名を記させてようやく治まった。そこで司徒郭子儀に朔方の兵で撃退させた。
- 至德二年(757年)九月、思禮は元帥廣平王に従い西京を収復、賊を破ると景清宮に真っ先に入城した。さらに子儀に従い陝城・曲沃・新店で戦い、賊軍は連敗して東京が収復された。思禮はまた絳郡で賊六千余を破り、器械は山積し牛馬は万を数えた。戸部尚書・霍國公に遷り実封三百戸を食んだ。
- 乾元二年(759年)、子儀ら九節度とともに安慶緒を相州に囲んだ。思禮は関内・潞府の行営歩卒三万・馬軍八千を率いたが、大軍は潰乱し、ただ思禮と李光弼の両軍だけが無事であった。光弼が河陽を鎮めると、思禮は太原尹・北京留守・河東節度使・兼御史大夫に任じられ、軍糧百万を貯え器械は精鋭であった。まもなく守司空を加えられた。武徳以来、三公の位にあって宰輔でなかった者は思禮のみであった。
死
- 上元二年(761年)四月、病で薨じた。朝廷は一日政務を停め太尉を贈り武烈と諡し、鴻臚卿に喪事を監護させた。思禮は財務の計算に長け用兵には短かったが、法を厳整にしたため士卒は敢えて犯さず、当時これを称した。
鄧景山――経歴
- 鄧景山は曹州の人。文吏として称せられた。天寶中、大理評事から監察御史に至った。至德初年、抜擢されて青齊節度使となり、揚州長史・淮南節度に遷った。政は簡素で厳粛と朝廷に聞こえた。在職四年のとき劉展の乱が起こり、平盧副大使田神功の兵馬を引いて討伐させた。神功が揚州に至ると住民の資産を大いに掠奪し、鞭打ち発掘してほとんど尽くし、商胡の大食・波斯などの商人で死者が数千人に及んだ。
- 上元二年(761年)十月、召されて入朝し尚書左丞を拝命した。太原尹・北京留守の王思禮は軍儲が豊かで、別に米一万石を蓄えており、その半分を京師に送ることを奏請した。思禮が薨じると管崇嗣が代わり、左右に任せて寛緩に過ぎたため数ヶ月のうちに費消し尽くし陳腐米一万余石のみが残った。上はこれを聞き即日景山を召して崇嗣に代えた。
- 太原に至ると鎮撫と紀綱を己の任とし、軍吏の隠没を検覈したため皆恐れた。ある偏将が罪により死罪に当たったとき、諸将はそれぞれその罪の贖いを求めたが景山は許さず、弟が兄に代わって死ぬことを求めても許さず、弟が馬一匹を納めて兄の罪を贖うことを求めると、これは許して死を減じた。皆怒って景山に「我らの命は馬一匹より軽いのか」と言い、軍衆は憤怒して景山を殺した。上は景山の統馭に問題があったとして罪を追及せず、使者を遣わして軍を諭した。軍中はそこで都知兵馬使・代州刺史の辛雲京を節度使に立てることを求め、これに従った。
辛雲京――出自と治績
- 辛雲京は河西の大族の出。代々軍を統率し、兄弟数人は皆将帥として名高かった。雲京は膽略あり志気は剛決で強敵を恐れず、常に戦陣で捕虜を得て首を斬ることを務めとした。功を重ねて北京都知兵馬使・代州刺史に至った。鄧景山が統馭を誤り軍士に殺されると、軍は雲京を節度使に求め、太原尹を兼ねさせ北門を委ねた。
- 雲京は性質沈毅で、部下に令に背く者があれば少しも許さず、賞功も同様に厳格であったため三軍は整粛であった。回紇は旧勲を恃んで漢の領内に入るたび貪欲に振る舞ったが、太原に至ると雲京は戎狄の道でこれに対したため、虜は雲京を畏れて息をひそめた。数年の間、太原は大いに治まり烽火の警急がなかった。功を重ねて検校左僕射・同中書門下平章事に加えられた。
死
- 大歴三年(768年)八月庚午、薨じた。上は追悼し哀を発して流涕し、太尉を冊贈し三日間政務を停め忠獻と諡した。後に宰臣の郭子儀・元載らが上に謁見した際、雲京のことに及ぶと涙を流して久しく止まなかった。十一月に葬られ、中使を遣わして弔祭させた。時に宰相および諸道節度使で祭った者は七十余幄に及んだ。
史論
- 史臣は言う。おおよそ将を語る者は孫子・呉子・韓信・白起を第一に挙げる。李光弼のように至誠をもって喪に服したことは人の子としての情が現れており、雄才をもって将となったことは軍旅の政が粛然としていた。奇をもって兵を用い少数で多数を破ったことを今と昔とを比べ言葉を考えれば、かの四人の将にも見劣りしない面がある。ただ邙山の敗戦では外征の権が専らでなく、徐州に留まったことでは君側の者に隙を伺われた。軍律違反の責は免れたとはいえ、身を顧みない義には欠けるところがあり、令名を全うできなかったのは惜しむべきことである。それでも外征の事、君側の人には慎まねばならないものがあろう。
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王思禮は法令が厳整で軍糧が豊かであり、節制の才は得難いものであった。鄧景山は初め文吏として虚名を得ていたに過ぎず、揚州の鉞を仗って人を得ずに士庶を掠奪させ、藩鎮を分かちながら小法にこだわり機権に暗かった。馬を貴び人を賤しんで衆怒を買い身を殺されたのも当然であろう。辛雲京は善を賞し悪を懲らして乱を静め辺境を安んじ、功は軍中に著しく、死後も寵を加えられた。まことに美事というべきである。
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賛して言う。李光弼は雄名を馳せ、王思禮は刑を清くした。乱を招いたのは鄧景山、これを救ったのは辛雲京であった。