大像造営への諫言
- 張廷珪は河南済源の人、先祖は常州から移り住んだ。廷珪は若くして文学で知られ性格は慷慨で志があった。若くして制挙に応じた。長安中、監察御史に累進した。則天が天下の僧尼に課税し白司馬阪に大像を造営しようとした際、廷珪は上疏して諫めた。
- 上疏の要旨は、仏とは覚知の義であり形相で見るものではなく『金剛経』の「色をもって我を見んとする者は邪道を行くもので如来を見ることはできない」を引き、既に天下に塔廟・尊像は遍く造られていること、布施の功徳は財の多寡ではなく経典の受持・演説にあることを説き、四海の財と万人の力を尽くして像を造っても、その福は一人の禅房での修行に及ばないと論じた。さらに土木工事で虫や蟻を大量に踏み殺すこと、貧しい工匠が過酷な労役に苦しむこと、僧尼への課税がさらに貧民を苦しめることを挙げ、これらは仏の慈悲・仁・随喜の教えに反すると批判、辺境が未だ安定せず軍需に費用がかかる中、まず辺境と府庫と民力を優先すべきと結んだ。則天はこれに従い工事を停止し、長生殿に召見して深く労った。景龍末、中書舎人となり、洪州都督・江南西道按察使に転じた。
- 開元初、礼部侍郎として入朝した。折しも旱魃で関中が饑饉に見舞われ、直諫と政治への提言を求める詔が下ると、廷珪は上疏した。要旨は、景龍末の中宗の禍と先天の変乱を振り返り、玄宗の武功により平穏がもたらされたことを称えつつ、近年の陰陽の乱れと凶作を憂い、これは天が玄宗に対し慎重を促す戒めであるとし、心を戒め欲を削り、正しい人材を登用し佞人を退け、後宮を減らし外厩を減らし遊興を絶ち、辺境の遠征を休め軍を解き、寡婦孤児を憐れみ徭賦を軽くし、奇伎淫巧や珍宝を退けることを求めた。
剛直な諫言と晩年
- 再遷して黄門侍郎となった。監察御史蔣挺が監決の杖刑をやや軽くしたとして朝堂で杖罰を受けることになった際、廷珪は「御史は憲司であり清望の耳目の官、罪あれば殺すか流すかすべきで杖罰は用いるべきでない、士は殺されても辱められない」と奏したが、既に制令が発布されていたため実施された。しかし議論する者は廷珪の言を正しいとした。まもなく禁中の言葉を漏らした罪に連座し沔州刺史に出、蘇州・宋州・魏州の三州刺史を歴任した。少府監として入朝し金紫光禄大夫を加えられ范陽男に封じられた。四度遷って太子詹事となり老病で致仕した。開元二十二年卒去、享年七十余、工部尚書を追贈され諡は貞穆。廷珪は陳州刺史李邕と親しく、しばしば上表して推薦し、邕が撰した碑碣の文は必ず廷珪に八分書(隷書の一体)で書かせた。廷珪は楷書・隷書に優れ当時大いに重んじられた。