舊唐書卷一百一 列傳第五十一 王求禮

剛直な弾劾

  • 王求礼は許州長社の人。則天朝で左拾遺となり監察御史に遷った。性格は忠実剛直で恐れず直言した。契丹の李尽忠が反乱し将の孫万栄が河北数州を陥落させた際、河内王武懿宗が兵を擁して討伐に赴いたが臆病で進めずにいた。賊が大いに掠奪して去った後、懿宗は滄州・瀛州の百姓で賊に協力させられた数百家を誅殺するよう奏上した。求禮はこれを弾劾し「この者たちは良吏の教導もなく城が不完全であったため賊に強制されたのであり、もとより背反の心があったわけではない、懿宗は数十万の兵を擁しながら賊が来ると聞くと城に籠り、罪はまさに誅殺に相当する、それを罪なき民に転嫁するのは臣の道に反する、懿宗を斬って河北の百姓に謝すべき」と述べ、懿宗は大いに恐れ、則天は結局赦免の勅を下した。
  • 契丹が幽州を陥れ輸送が滞った際、左相豆盧欽望が京官の俸禄を二か月分停めて軍費に充てるよう求めると、求禮は「あなたは俸禄が厚い、それを充てるのはよいだろう、しかし国家は四海の富を有しており軍国の費用は十分にある、なぜ貧しい官の薄い俸禄に頼るのか、それが宰相のやり方か」と述べた。欽望は色を成して拒み「秦漢はいずれも税算で軍を養った、求禮は大局を理解せず妄言している」と反論したが、求禮は「秦皇・漢武は天下に重税を課し国庫を空にして辺境に費やした、それを聖朝が真似てよいのか、それこそ大局を理解していない発言だ」と応じ、結局この策は実行されなかった。
  • 三月に雪が降った際、鳳閣侍郎蘇味道らはこれを瑞兆として賀表を草そうとしたが、求禮は「宰相が陰陽を調えるべきなのに晩春に雪を降らせたのは災いであり、どうして瑞兆と言えようか、三月の雪を瑞雪と言うなら臘月の雷も瑞雷と言えることになる」と止め、朝廷中の嗤笑を買い口実にされた。求禮は結局その剛正さゆえに高位に至らぬまま没した。