清廉な地方官
- 韓思復は京兆長安の人。祖父の倫は貞観中に左衛率となり長山県男に封じられた。思復は若くして祖父の爵を継いだ。初め汴州司戸参軍となり寛恕な政で杖罰を行わなかった。在任中に喪に服し家貧しく薪を売って喪を終えた。当時夏官侍郎として知政事にあった姚崇はこれを深く嘉し司礼博士に抜擢した。
- 景龍中、給事中に累進した。左散騎常侍厳善思が譙王重福の事件に連座し制獄に下された際、有司は「善思はかつて汝州刺史として重福と交際があり、京師に召された際にも謀反を密告せず『東都に兵気あり』とだけ奏上した、これは謀反を隠していたに等しく絞刑にすべき」と主張したが、思復は「議獄では死を緩め刑に疑いがあれば軽きに従うのが常典、善思は韋氏が専権を振るった時期に先んじてこれを見抜き相府に発言し聖躬(睿宗)の即位を予言していた、重福との交際は韋氏を陥れる謀のためであった、謁見の際に奏上しなかったことをもって極刑とすべきではない」と駁論した。当初、多くの議論者は善思を宥すべきとしたが有司はなお誅殺を主張し続けたため、思復は再度駁論し「諸司の議では善思は十のうち一のみ有罪、罪は軽い方が正しい、天子は天下の耳目を借りて聴き見る、少数意見を採り多数を棄てれば下情が上に達しなくなる」と論じた。玄宗(睿宗)はこの奏を容れ善思は死を免れ静州に流された。思復はまもなく中書舎人に転じ、しばしば得失を論じる上疏を行い多く採用された。
蝗害への諫言
- 開元初、諫議大夫となった。山東で蝗害が大発生した際、中書令姚崇は使者を河南・河北諸道に分遣し蝗を殺して埋めさせる策を奏したが、思復は蝗害は天災であり徳を修めて禳うべきで人力で滅ぼせるものではないと考え上疏した。「河南・河北の蝗はますます勢いを増し苗稼を損なっている、これから河西に飛び洛陽まで及ぶ勢いだが、使者は事実を隠しており山東数州は大いに恐れている、天災は埋めきれるものではない、陛下は過ちを悔い使者を遣わし民を慰め、不急の務めを省いて至公の人を召し上下一心となるべき、これまでの駆蝗使は総じて停めるべき」と述べ、「皇天に親しみなく徳ある者を輔ける、人心に親しみなく恵みある者を懐く」との『書経』の言葉を引いて人心の掌握を説いた。
- 玄宗はこれをもっともとし、思復の上疏を姚崇に渡した。崇は思復を山東に遣わして蝗害の被害地を検分させ、帰還後、思復は実情をありのままに奏上した。崇はさらに監察御史劉沼に再検分を命じたが、沼は崇の意向を汲み百姓を鞭打って旧状を書き改めて奏上したため、河南数州は結局免税を得られなかった。思復はこれにより崇に排斥され徳州刺史に出、絳州刺史に転じた。のち黄門侍郎として入朝し銀青光禄大夫を加えられ裴漼に代わり御史大夫となった。思復は性格恬淡で玄言(老荘の学)を好み、安らかに道を体していたが規律を司る任には向かなかった。まもなく太子賓客に転じ、開元十三年卒去、享年七十余。
韓思復の子 朝宗
韓思復の曾孫 佽
- 曾孫の佽、字は相之、若くして文学に優れ質朴を好んだ。進士に及第し諸藩鎮の幕僚に招かれた。襄州従事から殿中侍御史に召され、刑部員外郎に遷り、澧州刺史を望んで任じられた。任期満了の後、宰相牛僧孺が鄂渚を鎮める際に従事として招かれ、刑部郎中として召され京兆少尹に転じ給事中に遷った。桂州観察使として出た。
- 桂管二十余郡には州掾から邑長まで三百の官職があり、吏部からの補任は十分の一に過ぎず他は廉吏がその才を量って補任していた。佽が桂州に至ると、以前官職にあった吏数百人が謁見に訪れ、一人の吏が名簿を手に「員数が揃っており欠員を補充されたい」と言上した。佽は「在任中に善政を行った者はその職を奪わず、過失ある者は必ず法で処す、欠員は旧籍を照らし適任者を選んでから補う」と戒めた。折しも春衣使の宦官が到着し駅吏に賄賂を求め、三人の豪家がこれを厚遇して邑宰の地位を求めたところ、佽は一旦これを承諾したが、使者が去った後、法を曲げた罪で各々背を鞭打った。以後、豪猾は姿を潜め清廉な吏によって民が救われた。まもなく五管都監を置く詔が下り、費用が一境の税を尽くしても足りない有様であったが、佽は特に倹約でこれに処し、これが定制となり識者に難事とされた。開成二年、官にて卒去、工部侍郎を追贈された。