舊唐書卷一百〇二 列傳第五十二 元行沖

『魏典』の編纂と学問

  • 元行沖は河南の人、後魏の常山王元素連の後裔。幼くして父を失い外祖父の司農卿韋機に養われた。博学多通で特に音律・訓詁の学に優れた。進士に及第し通事舎人に累転、納言狄仁傑に深く重んじられた。行沖は阿ることなくしばしば諫言し、仁傑に「下が上に仕えるのは、蓄えを備えて自らを助けるようなもの、富家が滋味豊かな食で滋養し人参・朮・霊芝・肉桂で病を防ぐように、あなたの門下には賓客が多いだろうから、私はその中の一薬物として備えたい」と述べたところ、仁傑は笑って人に「これは私の薬籠の中の物、一日たりとも欠かせない」と語った。九度遷って陝州刺史・兼隴右関内両道按察使となったが、赴任前に太常少卿を拝した。
  • 行沖は自らの一族が後魏の出でありながら編年史がないことから『魏典』三十巻を撰し、事実は詳しく文は簡潔と評された。かつて魏の明帝の頃、河西柳谷の瑞石に「牛が馬の後を継ぐ」という予兆があり、魏収の旧史はこれを晋の元帝が実は牛氏の子であり司馬姓を冒したことに応じたものとしたが、行沖は事跡を精査し後魏の昭成帝の諱「犍」が晋の受命を継いだこととして考証し論を著してこれを明らかにした。
  • 開元初、太子詹事から岐州刺史に出、関内道按察使を兼ねた。行沖は自ら書生であり厳しい任務に堪えられないとして按察使を固辞し、寧州刺史崔琬がこれに代わった。まもなく右散騎常侍・東都副留守として入朝した。嗣彭王李誌暕の庶兄誌謙が謀反を誣告され拷問で自白させられ獄に繋がれ十数人が連座した際、行沖はその冤罪を見抜き奏して赦した。四度遷って大理卿となった。揚州長史李傑が侍御史王旭に讒言された事件で大理に断罪が下された際、行沖は傑が清廉であり讒言に陥れられるべきでないとして軽い処分にとどめるよう奏したが、当時は容れられなかったものの識者に大いに評価された。まもなく刑獄の官を固辞し散職を求めた。七年、再び左散騎常侍に転じ、九度遷って国子祭酒となり、一月余りで太子賓客・弘文館学士を拝した。常山郡公に累封された。

『類礼義疏』論争と『釈疑』

  • 以前、秘書監馬懐素が学者を集め王倹『今書七志』の続編を編纂し、左散騎常侍褚無量が麗正殿で四部書を校写していたが、事業半ばで懐素・無量が没したため詔で行沖がその職を総括した。行沖は表を上げて古今の書目を通撰し『群書四録』と名付けることを願い出、学士鄠県尉毋煚・櫟陽尉韋述・曹州司法参軍殷践猷・太学助教余欽らに分担で検討させ、一年余りで完成し奏上、玄宗はこれを嘉した。さらに行沖に勅撰『孝経疏義』の撰述を命じ学官に列せさせた。まもなく老齢のため麗正殿での校写事業を辞した。
  • 以前、左衛率府長史魏光乗が魏徴が注した『類礼』の使用を上奏したことから、玄宗は行沖に学者を集めて『義疏』を撰させ学官に立てようとした。行沖は国子博士范行恭・四門助教施敬本を招いて検討・刪削させ五十巻にまとめ、開元十四年八月に奏上した。しかし尚書左丞相張説は「今の『礼記』は前漢の戴徳・戴聖が編纂したもので千年近く伝習され経教として定着しており刪削すべきでない、魏の孫炎が改編した際も先儒に批判され行われなかった、貞観中に魏徴が孫炎の本に整理を加え注をつけたが、これも結局行われなかった、行沖らが魏徴注を解説し一家をなしたが先儒の説と食い違いがあり、学官に立てるのは適当でない」と駁奏した。玄宗はこれに従い行沖らに絹二百匹を賜り書は内府に留めるにとどめ学官には立てられなかった。
  • 行沖は儒者たちに排斥されたことを憤り論を著して自らの思いを述べた、これを『釈疑』という。客が「戴礼の学は行われて久しく鄭玄の注が学官に列せられている、それを魏公(魏徴)が改編し、さらに疏を作って頒布しようとしていると聞くが、二つの説のどちらが優れているのか」と問うたのに対し、主人(行沖)は鄭玄注の由来(馬融・盧植の学統を継ぎ党錮の禍の中で学問を究めた経緯)や王粛・孫炎らによる改編の歴史を詳述し、魏徴の改編は先儒の錯雑を整理し精深な説を紡いだものであると弁じた。
  • 客がなお「衆議は既に定まっているのになぜ改めて申し立てないのか」と問うと、主人は孔安国の『尚書』注、劉歆の『左伝』学、王粛の鄭学批判の例を挙げ、旧説を変えることの困難さを五つの故事(孔安国の族兄孔臧の書、孔季産と孔扶の対話、劉歆の移書事件、王粛と馬昭の論争、卜商と曾子・子貢の逸話)で論証。鄭玄注が長く支持されてきた背景にも誤りが含まれること(王粛・張融の指摘)を述べ、専門家が師説を父母の名のように守り批判を許さない風潮を批判した。最後に、自分は専経の学者ではなく高名もないため異論を唱えれば誣告を受けやすいこと、既に賞を受けた以上これ以上争うのは分をわきまえないことだとして、沈黙を選んだと結んだ。
  • 行沖はまもなく重ねて致仕を願い出て許された。開元十七年卒去、享年七十七、礼部尚書を追贈され諡は献。