簡潔な史筆
- 呉兢は汴州浚儀の人。志を励まし学に勤め経史に博通した。宋州人魏元忠・亳州人朱敬則に深く重んじられ、両者が宰相となると兢の史才を推薦し近侍に堪えるとして史館に直させ修国史を命じた。数ヶ月で右拾遺内供奉を拝した。神龍中、右補闕に遷り、韋承慶・崔融・劉子玄と共に『則天実録』を撰して起居郎に転じた。まもなく水部郎中に遷ったが喪に服し郷里に帰った。開元三年、喪明けの後、上疏して「臣は既に数十巻の史を修めており、職を離れても筆を忘れず、残りの仕事を終えたい」と願い出、諫議大夫を拝し引き続き修史にあたった。まもなく修文館学士を兼ね、衛少卿・右庶子を歴任した。史職に約三十年携わり、簡潔な叙事で人々に称賛されたが、晩年はやや簡略に過ぎたとも評された。
- 『国史』が未完のまま十七年、荊州司馬に出されたが、史稿を携行することが許された。中書令蕭嵩が監修国史となり兢の撰した『国史』を取り寄せると六十五巻あった。台州・洪州・饒州・蘄州の四州刺史を歴任し銀青光禄大夫を加えられ相州長垣県子に遷った。天宝初、官名改定で鄴郡太守となり、恒王傅として入朝した。
- 兢は梁・陳・斉・周・隋の五代史が繁雑であるとして別に『梁史』『斉史』『周史』各十巻・『陳史』五巻・『隋史』二十巻を撰したが、これも簡略に過ぎると批判された。兢は老いてなお史職を望んだが、歩行も不自由になり李林甫は老齢を理由に用いなかった。天宝八年、自邸で卒去、享年八十余。兢の没後、子が兢の撰した『唐史』八十余巻を献上したが誤りが多く壮年期の作に及ばなかった。兢は蔵書家としても知られ自ら目録を作り『呉氏西斎書目』と称した。