舊唐書卷一百〇三 列傳第五十三 郭知運

辺境防衛と晩年

  • 郭知運、字は逢時、瓜州常楽の人。勇猛で弓に長け胆略があった。初め秦州三度府果毅となり、戦功により左驍衛中郎将・瀚海軍経略使に累除、検校伊州刺史・兼伊吾軍使に転じた。開元二年春、郭虔瓘を副けて北庭で突厥を破り、功により介休県公に封じられ雲麾将軍を加えられ右武衛将軍に抜擢された。その秋、吐蕃が隴右に侵攻し監牧の馬を掠奪した際、詔で知運が討伐を命じられ、薛訥・王晙らと連携してこれを撃破、鄯州都督・隴右諸軍節度大使を拝した。
  • 四年冬、突厥の降戸阿悉爛・跌思太らが反乱し単于副都護張知運が賊に捕らえられた際、薛訥に討伐が命じられ、知運(郭知運)は詔で朔方の兵募を率いて綏州境で賊を側面から急襲、黒山呼延谷で大破し賊は甲仗を捨て張知運を放って逃走した。六年、知運は再び吐蕃討伐に赴き無防備であった九曲を急襲、鎖・甲馬・耗牛など数万を獲得した。この勝利は京の五品以上の文武百官と朝集使に分配され、知運は兼鴻臚卿・摂御史中丞・太原郡公に加封された。八年、六州の胡康待賓らが反乱した際、知運は王晙と共にこれを平定し左武衛大将軍を拝し、子一人に官を授けられ金銀器百点・雑彩千段を賜った。九年、軍中で卒去、涼州都督を追贈され米粟五百斛・絹帛五百段を賜り、中書令張説がその碑文を撰した。知運は西陲に在任中、蕃夷に大いに畏れられ、後に勇将として名を馳せた王君㚟と共に「王・郭」と称された。子は英傑・英乂。

郭知運の子ら

  • 英傑は官が左衛将軍に至った。開元二十一年、幽州長史薛楚玉が英傑と裨将呉克勤・烏知義・羅守忠らに精騎一万と降伏した奚の兵を率いさせ契丹討伐に向かわせ榆関の外に駐屯させたが、契丹首領可突干が突厥の兵を率い都山の麓で迎え撃った。官軍は不利となり知義・守忠は麾下を率いて退却したが、英傑は克勤と共に賊と力戦し共に陣中で戦死した。残った精鋭六千余人はなおも賊と苦戦し、賊が英傑の首を見せても降伏せず、皆賊に殺された。英乂は剣南西川節度使となり別に伝がある。