舊唐書卷一百〇三 列傳第五十三 王君㚟

河西経営と戦死

  • 王君㚟は瓜州常楽の人。初め郭知運の別奏となり驍勇で騎射に長け、戦功により右衛副率に累除された。知運の没後、代わって河西・隴右節度使となり右羽林軍将軍に遷り涼州都督事を判じた。開元十六年冬、吐蕃の大将悉諾邏が大斗谷に侵攻しさらに甘州を攻めて市街を焼いて去った。君㚟は疲弊した敵兵を見計らい追撃の備えをしていたところ、折しも大雪が降り賊軍に凍死者が多く出て賊は積石軍の西路を通って撤退した。君㚟は副使馬元慶・裨将車蒙に追わせたが及ばなかった。君㚟は先んじて人を賊境に潜入させ帰路の草を焼かせておいた。悉諾邏が大非川に戻り甲を休め馬を放牧しようとしたところ、野草が尽き馬の半数以上が死んだ。君㚟はその後を襲い青海の西まで至った。折しも海水が凍結していたため、君㚟は秦州都督張景順らと共に将士を率いて氷上を渡り、悉諾邏が既に大非山を越え輜重と疲弊した兵だけが青海の側に残っていたところを兵を放って悉く捕獲し、羊馬も万を数えた。功により右羽林軍大将軍・摂御史中丞に遷り涼州都督事を判じ続け、晋昌伯に封じられた。父の壽は少府監を授けられ致仕を許された。玄宗はまた広達楼で君㚟と妻夏氏を招いて宴を設け金帛を賜った、夏氏も戦功があったためで武威郡夫人に封じられた。
  • その冬、吐蕃が瓜州を陥落させ刺史田仁献と君㚟の父壽を捕らえ、人戸を殺掠し軍資・倉糧を奪った。さらに玉門軍・常楽県を攻めた。吐蕃は僧徒を涼州に帰らせ君㚟に「将軍は常々忠勇で国に報いたいと言っていた、今日なぜ一戦しないのか」と伝えさせたが、君㚟は父が捕らわれたと聞き城壁に登り西に向かって哭いたが、結局出兵しなかった。

回紇との軋轢と最期

  • 以前、涼州境には回紇・契苾・思結・渾の四部落があり代々酋長を継承していたが、君㚟が微賎な頃、涼州府を往来する中で回紇らに軽んじられていた。君㚟が河西節度使となると、回紇らは不満を抱きその麾下にあることを恥じた。君㚟が法をもってこれを厳しく取り締まると、回紇らは怨みを募らせ密かに東都に人を遣わし冤罪を訴えた。君㚟は急ぎ駅を発して「回紇部落は制しがたく密かに叛意を抱いている」と奏上、玄宗は中使に調査させたが、回紇らはついに理を得られなかった。これにより瀚海大都督回紇承宗は瀼州に、渾大徳は吉州に、賀蘭都督契苾承明は藤州に、盧山都督思結帰国は瓊州に長流された。右散騎常侍李令問・特進契苾嵩は回紇らと婚姻関係にあったため令問は撫州別駕に、嵩は連州別駕に貶された。
  • これにより承宗の党である瀚海州司馬護輸が党与を糾合し君㚟殺害を謀り怨みを晴らそうとした。折しも吐蕃の使者が間道を経て突厥に向かったため、君㚟は精騎を率いて肅州で急襲しようとし、帰路の甘州南の鞏笪駅で護輸の伏兵が突如現れ君㚟の旌節を奪い、まず側近の宗貞を殺してその心臓を抉り「これが謀の始まりだ」と述べた。君㚟は数十人と共に力戦したが朝から夕方まで戦い側近は皆討ち死にし、遂に君㚟も殺され屍は吐蕃へ運ばれようとしたが、追討を受け護輸は屍を放って逃げた。玄宗はこれを深く痛惜し特進・荊州大都督を追贈、霊柩を京師に送り都城の東に葬らせ官費で葬儀を行い、張説に碑文を撰させ自ら碑に筆をとって特別に顕彰した。

賈師順の常楽県防衛

  • 吐蕃が瓜州を侵した際、副将莽布支に常楽県を攻めさせたが、県令賈師順は籠城して固守した。瓜州城が陥落すると大将悉諾邏も全軍を挙げて常楽を攻めたが数日陥落しなかった。賊の中に漢人の妻を娶った者があり、その妻の弟が常楽城内にいたため、悉諾邏は夜、城下で私的な面会を装わせ師順に「瓜州は既に破れ吐蕃は全軍でここに来ている、抵抗の理由があろうか、あなたの妻の弟が城内にいる、早く降伏して城中の人々を救うべき」と伝えさせたが、師順は「漢の法では賊に降れば九族が誅される、私は国の官爵を受けた身、死をもって寇を防ぐべきで、恩に背いて賊に降ることはできない」と答えた。悉諾邏はなお降伏しないと知りさらに八日攻め続け、再び使者を通じて「あなたが降伏しないなら我々は帰る、城中に贈り物はないのか」と述べさせたところ、師順は兵の衣服を脱がせて贈った。悉諾邏は城内に財帛がないと知り、夜に死体を焼いて陣を引き払い瓜州城を破壊しながら撤退した。師順は速やかに門を開いて武器を回収し防備を修めた。吐蕃は果たして精騎を返して再襲を試みたが、備えがあるのを見て去った。
  • 賈師順は岐州の人。城を守った功により鄯州都督・隴右節度使に累進、左領軍将軍として入朝し病没した。