北庭防衛の功
- 郭虔瓘は斉州歴城の人。開元初、右驍衛将軍・兼北庭都護に累進した。二年春、突厥の黙啜がその子移江可汗と同俄特勒に精鋭を率いさせ北庭を包囲させた際、虔瓘は衆を率いて固守した。同俄特勒が単騎で城下に迫った隙に、虔瓘は勇士を道の脇に伏せさせ突如斬らせた。賊軍が到着すると同俄がいないことを知り城下で降伏を乞い、軍中の衣資・器杖をすべて差し出して同俄の身柄を求めたが、その死を知ると三軍は慟哭して引き退いた。黙啜の娘婿である火抜頡利発石阿失畢は当時同俄特勒と共に兵を領していたが、同俄の死により帰還を恐れ妻を伴い唐に投降した。虔瓘は破賊の功により冠軍大将軍・行右驍衛大将軍を拝した。
- さらに詔で「雲麾将軍・検校右驍衛将軍・兼北庭都護・瀚海軍経略使・金山道副大総管・招慰営田等使・上柱国・太原県開国子郭虔瓘、宣威将軍・守右驍衛翊府中郎将・検校伊州刺史兼伊吾軍使・借紫金魚袋・上柱国郭知運らは、柳中・金満での寡兵での防衛戦において秋から冬にかけ孤城で耐え抜き、十のうち九を防いで日逐の残党を打ち破り天驕(突厥の可汗)の愛息(同俄特勒)を斬った、耿恭・班超にも劣らぬ功である」として、虔瓘を太原郡開国公、知運を介休県開国公に進封する制が下った。
- 虔瓘はまもなく安西副大都護・摂御史大夫・四鎮経略安撫使に転じ潞国公に進封され実封百戸を賜った。虔瓘は関中の兵一万を募って安西に赴かせ討伐に用いることを奏請し、公乗(駅馬)と熟食の供給も願い出て許可された。これに対し将作大匠韋湊が上疏し、兵は凶器であり無用の遠征を戒めるべきこと、西域諸蕃は既に恭順していること、関輔の戸口が既に逃亡で少なく丁壮を出征させ尽くしていること、一万人を六千里以上の遠方に送り駅馬と食料を供給する負担が沿道の州県に重くのしかかること、遠征の費用に見合う成果が疑わしいこと、漢の武帝の遠征が国を疲弊させた例を引き、唐堯の代のような太平こそ理想であるべきと諫めたが、結局虔瓘に大きな戦果はなかった。まもなく右威衛大将軍に遷り、病により卒去した。
- その後、張嵩が安西都護として虔瓘に代わった。嵩は身長七尺、容姿魁偉で、初め進士に及第し常に辺境の任を自らの本分と心得ていた。安西では農耕を奨励し戦備を重んじ府庫を充実させた。開元十年、太原尹に転じ官にて卒去した。まもなく黄門侍郎杜暹が嵩に代わり安西都護となった。