舊唐書卷九十九 列傳第四十九 張九齢

出自と早年の抜擢

  • 張九齢、字は子壽、一名博物。曾祖君政は韶州別駕となり始興に家を構え、その子孫は曲江の人となった。父弘愈は九齢の顕貴により広州刺史を追贈された。九齢は幼くして聡敏で文を善くし、十三歳で広州刺史王方慶に書を送りその才を大いに嘆賞され「この子は必ず大成する」と評された。進士に及第、挙に応じて乙第となり校書郎を拝した。玄宗が東宮にあった頃、天下の文藻の士を挙げ親しく策問した際、九齢は高い成績で対策し右拾遺に遷った。
  • 玄宗がまだ親郊の礼を行っていなかった頃、九齢は上疏し、王者の統を継ぐ者は必ず郊祀で天に配すべき義があること、周公が成王幼少の折にもこの礼を欠かさなかったこと、匡衡・董仲舒も郊祀を最重要の祭として説いたことを引き、五穀豊穣・夷狄内附・兵革の平安といった現在の状況を挙げ、郊祀の常典を欠くことは天を怠るに等しいとして早期の実施を求めた。

張説との関係と封禅事件

  • 九齢は才鑑を見込まれ、吏部の抜萃選人や応挙者の等第を右拾遺趙冬曦と共に考査し、しばしば公平と評された。開元十年、三たび遷り司勲員外郎。当時中書令であった張説は九齢と同姓のよしみで昭穆の序を結び特に親重し「後進の詞人の第一人者」と評した。九齢もこれに応じて説に依存した。十一年、中書舎人を拝した。
  • 十三年、玄宗の東巡・封禅の礼に際し、説は自ら侍従・升中の官を定め、両省の録事主書や自分の親しい摂官を多く登用し特進の階を加え五品に超授した。九齢が詔の起草を命じられた際、九齢は説に「官爵は天下の公器、徳望を先とし労旧を次とすべき、序を乱せば謗りを招く、封禅の恩沢は千載一遇、清流高品にすら及ばぬのに下級の胥吏が先に章紱を得れば四方の失望を招く、詔が出る前ならまだ改められる、よくお考えいただきたい」と諫めたが、説は「事は既に決まった、世間の噂など意に介する必要はない」として従わなかった。詔が出ると内外は皆説を非難した。
  • 当時、御史中丞宇文融が田戸の事を掌り度々建議したが、説はこれに反対することが多く、融も説に不満を抱いていた。九齢は説に備えるよう勧めたが、これも聞き入れられなかった。まもなく説は果たして融に弾劾され知政事を罷免、九齢も太常少卿に改められ冀州刺史に出された。九齢は母が老いて郷里にあり河北への赴任が遠いとして江南の一州への転換を上疏で求め、洪州都督に改められた。まもなく桂州都督・嶺南道按察使に転じた。玄宗は弟の九章・九皋も嶺南道の刺史とし、歳時の伏臘(祭祀の休暇)には共に帰省を許した。

宰相拝命と諫言

  • かつて張説が集賢院事を知る際、九齢を学士として顧問に備えるべきと推薦していた。説の没後、玄宗はその言葉を思い出し九齢を秘書少監・集賢院学士・副知院事に召拝した。再遷して中書侍郎となり、密奏がしばしば容れられた。まもなく母の喪に服し帰郷した。二十一年十二月、起復して中書侍郎・同中書門下平章事を拝した。翌年、中書令に遷り修国史を兼ねた。
  • 范陽節度使張守珪の裨将安禄山が奚・契丹討伐に敗れ京師に護送された際、九齢は「穣苴が出兵に際し荘賈を誅し、孫武が教練で宮嬪を斬った例に倣い、守珪の軍令を貫くには禄山も死を免れさせるべきではない」と弾劾した。しかし玄宗は特に許した。九齢はさらに「禄山は狼子野心で顔に逆相がある、罪に乗じて誅し後患を絶つべき」と奏したが、玄宗は「王夷甫が石勒を知りながら害さなかった故事を持ち出して忠良を誤って害してはならぬ」と述べ、禄山を藩に帰らせた。

李林甫との対立と晩年

  • 二十三年、金紫光禄大夫を加えられ始興県伯に累封された。李林甫は自ら学識がなく、九齢の文才と徳行が玄宗に重んじられていることを深く忌んだ。林甫は牛仙客を知政事に引き入れようとしたが九齢は再三これに反対し、玄宗の不興を買った。二十四年、尚書右丞相に遷り知政事を罷免された。以後、執政が公卿を推薦するたびに玄宗は「風度は九齢に及ぶか」と問うたという。当時、笏を帯に挿してから馬に乗る習わしがあったが、九齢は体が虚弱で常に人に持たせたため笏袋を用いるようになった、笏袋の始まりは九齢からである。
  • 以前、九齢は宰相であった頃、長安尉周子諒を監察御史に推薦していたが、子諒がみだりに吉凶を述べたことで玄宗が親しく詰問し朝堂で処刑させた事件が起きた。九齢は人選を誤った罪で荊州大都督府長史に左遷された。まもなく墓参りのため帰郷を願い出たが病を得て卒去、享年六十八、荊州大都督を追贈され諡は文献。
  • 九齢は宰相在任中、十道採訪使の復置を建議し、河南数州に稲作を教えて屯田を広げようとしたが、屯田は費用ばかりかかり利益がなく実現せず取り止めとなった。性格はやや急躁で、しばしば怒って人を罵ったため、識者はこれを短所とした。
  • 子の拯は伊闕令。安禄山の乱で賊に陥ったが偽命を受けなかった。両京の回復後、太子右賛善を加えられた。弟の九皋は尚書郎から唐・徐・宋・襄・広の五州刺史を歴任。九章は吉・明・曹三州刺史、鴻臚卿を歴任した。
  • 九齢が中書令であった頃、天長節(玄宗誕生日)に百僚が寿を捧げ珍奇な品を献上する中、九齢だけは古今の興廃の道を記した『金鏡録』五巻を進呈し、玄宗はこれを特に賞賛した。九齢は中書侍郎厳挺之・尚書左丞袁仁敬・右庶子梁昇卿・御史中丞盧怡と親しく交わり、挺之らは才幹があり交誼を最後まで変えなかったため当時称賛された。至徳初、玄宗(上皇)は蜀にあって九齢の先見を思い、詔で追贈を褒め、社稷を安んじた先覚の忠臣として司徒を追贈し韶州へ使者を遣わして祭らせた。文集二十巻がある。

九皋の曾孫 張仲方

  • 九皋の曾孫仲方は幼くして明朗秀逸であった。児童の頃、父の友人高郢が見て「この子は尋常でない、必ず国の器となる、私が高位に就いたら必ず引き立てよう」と評した。のち郢が御史大夫となると真っ先に仲方を御史に推薦した。金州刺史を歴任、郡人の田産が宦官に奪われた事件では三度上疏してその冤罪を晴らした。度支郎中として入朝、李吉甫の諡に異議を唱えたため吉甫の一党に憎まれ遂州司馬に出された。のち復州・曹州・鄭州の太守を歴任し諫議大夫となった。
  • 鄠県令崔発が小宦官を辱めた事件で敬宗が激怒し台に付して糾問させ、元日の大赦でも発だけが赦されずにいた際、仲方は上疏し「大恩が天下に布かれながら御前には行われず、恩沢が虫にまで及びながら崔発だけが漏れている」と述べ、発は死を免れ時論に称賛された。
  • 大和九年、京兆尹となった際、朝廷の粛清で処刑された者の遺骸を密かに記録させ、のち収葬を許す詔が下ると遺骸を認めることができたのは仲方の功であった。当時軍人が横暴を極める中、仲方は柔軟な対応にとどまり職責を果たせなかったとして華州刺史に出、のち秘書監に改められた。開成二年卒去、享年七十二、礼部尚書を追贈され諡は成。