出自と抜擢
- 蕭嵩は貞観初の左僕射・宋国公蕭瑀の曾姪孫。祖父の鈞は中書舎人として当代に名を知られた。嵩は髭が美しく容姿堂々としていた。初め会稽の賀晦の娘を娶り、呉郡の陸象先と義兄弟(僚婿)になった。象先が洛陽尉であった当時、宣州の夏栄という相術者が「陸郎は十年で人臣を極めるが、蕭郎一門が皆貴顕となり官位高く長寿を保つには及ばない」と述べ、当時の人々はまだ信じなかった。
- 神龍元年、嵩は洺州参軍に調補された。まもなく侍中・扶陽王桓彦範が洺州刺史となり嵩を重んじ厚遇した。景雲元年、醴泉尉。当時中書侍郎であった陸象先の推薦で監察御史に転じ、象先が知政事となると殿中侍御史に急速に昇進した。開元初、中書舎人。崔琳・王丘・斉澣と同列であったが学識に乏しいとみなされ差はなかったところ、紫微令姚崇は嵩の遠大さを認め特に目をかけた。宋州刺史を歴任し、三度遷って尚書左丞・兵部侍郎となった。
河西節度使としての功績
- 十五年、涼州刺史・河西節度王君奐が兵力を恃みに毎年吐蕃を攻撃していたところ、吐蕃の大将悉諾邏恭禄・燭龍莽布支が瓜州城を陥落させ刺史田元献と君奐の父壽を捕らえ、城中の軍資・倉糧をすべて奪って城を破壊して去った。さらに玉門軍・常楽県を攻めたが、県令賈師順が籠城して守り賊は退いた。まもなく君奐は回紇諸部に鞏筆駅で殺害され、河・隴一帯が震撼した。玄宗は君奐が勇将ながら謀に欠け遂に難に遭ったとみて、辺境の任にふさわしい人材として嵩を兵部尚書・河西節度使・判涼州事とした。
- 嵩は裴寛・郭虚己・牛仙客を幕下に招くよう請い、また建康軍使・左金吾将軍張守珪を瓜州刺史とし城を修築し百姓を招集して生業を復させるよう請うた。嵩自身も銀青光禄大夫を加えられた。悉諾邏恭禄が威名高かったため、嵩は吐蕃に反間の計を用い、彼が唐と密通しているとの噂を流し、吐蕃の賛普はこれを召して誅殺した。翌年秋、吐蕃が大挙して悉末朗を再び瓜州に向かわせたが守珪が出撃して撃退。隴右節度使・鄯州都督張志亮も青海西南の馮波谷で吐蕃と交戦し大破した。八月、嵩はさらに副将杜賓客に弩手四千を率いさせ祁連城下で吐蕃と朝から夕まで戦い、賊軍は散っては合し最終的に大潰走、その副将一人を陣中で斬り残兵は山谷に逃げ散り哭声が四方に響いた。露布(勝報)が届くと玄宗は大いに喜び嵩を同中書門下三品に加え、恩顧比類なかった。
宰相拝命と晩年
- 十七年、宇文融・裴光庭を宰相に任じた際、嵩にも中書令を兼ねさせた。十四年に燕国公張説が中書令を罷めて以来四年空位であったこの職を嵩が占めた。常に河西節度を帯び遥領した。集賢殿学士・知院事を加えられ修国史を兼ね、金紫光禄大夫に進んだ。子の衡は新昌公主を娶り、嵩の夫人賀氏が入朝拝謁した際、玄宗は「親家母」と呼び礼遇は盛大だった。まもなく徐国公に進封された。
- 二十一年二月、侍中裴光庭が卒去。光庭とは数年間同位で不和であったが、玄宗が嵩に後任を選ばせると、嵩は右丞韓休を長者として推挙した。休が宰相入りすると事に当たり峭直で嵩に妥協せず、玄宗の前で互いに是非を論じたため、嵩は自ら位を譲った。玄宗は嵩を厚遇し尚書右丞相に任じ宰相を罷めさせ、休は工部尚書とした。まもなく嵩の子華も給事中となった。
- 二十四年、太子太師を拝した。幽州節度使張守珪が中官牛仙童への贈賄で括州刺史に左遷された際、嵩もかつて仙童に賄賂を贈っていたことを李林甫に暴かれ青州刺史に左遷、まもなく太子太師に復帰、嵩自身も引退を願い出た。嵩は薬餌を好み、宰相を罷めてからは庭園に薬草を植え自ら調合して楽しんだ。子の華は工部侍郎、衡は駙馬として三品にあり、嵩は白髪となりつつも十余年養われ、家財は豊かで士大夫にも栄誉とされた。天宝八年薨去、八十余歳、開府儀同三司を追贈された。
蕭嵩の子 華
- 子の華は天宝末、兵部侍郎に転じた。安禄山の乱で玄宗の行幸に従いきれず賊に陥り、偽って魏州刺史を授けられた。乾元元年、郭子儀ら九節度の軍が黄河を渡って相州の安慶緒を攻めた際、華は密かに表疏を通じ官軍到着時の内応を約束した。賊はこれを察知し華を獄に閉じ込めたが、崔光遠が魏州を回復した際に枷を破って救出した。魏の人々は華の善政を慕い光遠に留任を願い出、朝廷は正式に魏州刺史に任じた。
- のち史思明が南下すると、郭子儀は華が再び陥落することを恐れ崔光遠を代わりに推挙し華を軍中に召還した。相州の軍が潰えると華は京に戻ったが、偽命に汚れたとして試秘書少監に降された。華は謹厳で家法にかない人々に称賛され、まもなく尚書右丞に遷った。乾元二年、河中尹・河中晋絳節度使に出た。
- 上元元年十二月、詔で「輔佐すべき人材を求むるに際し、正議大夫・前河中尹・兼御史中丞・充本府晋絳等州節度観察等使・上柱国・嗣徐国公・賜紫金魚袋蕭華は、家業を継ぎ徳望を備え、既に宮坊を務め行いを知る、宰相として登用する」との勅が下り、中書侍郎・同中書門下平章事・集賢殿崇文館大学士・監修国史を拝した。
- 当時、宦官李輔国が禁兵を専掌し寵を頼みに宰相の座を求め宰臣裴冕らに自らの推薦を諷したが、華はこれを拒んだため輔国は怒った。肅宗が病床にあった折、輔国は矯命で華を宰相位から罷め礼部尚書に留め、代わりに元載を引き立てた。肅宗が崩ずると代宗は諒暗(服喪中)にあり、元載は輔国の意を汲んで華を硤州員外司馬に左遷、華は貶所で卒去した。
蕭衡・蕭華の子孫
- 衡の子復は徳宗朝で宰輔に至った。華の子は恆と悟。恆の子俯は大和中に宰輔、悟の子仿は咸通中に宰輔となり、いずれも別に伝がある。