抜擢と辺境統治
- 張嘉貞は蒲州猗氏の人。若くして五経挙に応じ平郷尉を拝したが事に連座して免ぜられ帰郷した。長安中、侍御史張循憲が河東採訪使となった際、嘉貞の才を憲官にふさわしいと推薦し自らの官秩を譲ろうとした。則天は召見し垂簾を隔てて語ったが、嘉貞は「草莽の身で九重に謁見できるのは千載一遇の機会、咫尺の間が雲霧に隔てられ日月を見られなければ君臣の道が尽くせない」と奏したところ、則天はただちに簾を巻かせて語り合い大いに喜び、監察御史に抜擢した。中書舎人に累進、秦州都督・并州長史を歴任、政は厳粛で人吏に畏れられた。
- 開元初、奏事のため京師に至った際、玄宗はその善政を聞き幾度も賞賛した。嘉貞は「臣は幼くして孤児となり兄弟で支え合ってきた、弟の嘉祐は今鄯州別駕に任じられ離れて暮らしている、近くに移していただければ兄弟共に力を尽くして報国し死んでも悔いはない」と奏し、玄宗はその友愛を嘉して嘉祐を忻州刺史に改めた。
- 突厥九姓が新たに内附し太原以北に散居していたため、嘉貞は軍を置いて鎮めるよう奏請、并州に天兵軍が置かれ嘉貞が使に任じられた。六年春、嘉貞が入朝した際、軍中での奢侈と収賄を告発する者があり御史大夫王晙が弾劾したが調査の結果無実と判明、玄宗が告発者を反坐の罪に処そうとすると、嘉貞は「昔、天子は上で政を聴く際、盲人の楽師の諷諫や百官の諫言、庶民の誹謗まで斟酌したもの、今この者らを反坐に処せば言路を塞ぎ天下の事が上に届かなくなる」と述べ、免罪を求めた。玄宗はこれに従い死罪を減じ、以後嘉貞を忠と評した。嘉貞はさらに「今は志気壮んで命を捧げる時、あと数年で老いて能わなくなる、早く任用いただければ死をも厭わない」と奏し、玄宗はその明弁ぶりを重んじた。八年春、宋璟・蘇頲が知政事を罷免されると嘉貞は中書侍郎・同中書門下平章事に抜擢され、数ヶ月で銀青光禄大夫を加えられ中書令に遷った。
剛強な性格と失脚
- 嘉貞は決断が敏速で奏上に長けたが性格は強情で自らを恃み、時論に譏られることが多かった。中書舎人苗延嗣・呂太一、考功員外郎員嘉静、殿中侍御史崔訓は皆嘉貞の引き立てで清要の位にあり常に嘉貞の門下で朝政を論じ、時人は「令公四俊、苗・呂・崔・員」と称した。
- 開元十年、玄宗の東都行幸中、洛陽主簿王鈞が嘉貞のために邸宅を修築し御史の地位を求めたが収賄が発覚、玄宗は朝堂で処刑させた。嘉貞は口封じのため処刑を急がせ、罪を御史大夫韋抗・中丞韋虚心に転嫁し両者を貶黜させた。その冬、秘書監姜皎が罪を犯した際も嘉貞は王守一に迎合し杖刑を奏請、皎は道中で死んだ。まもなく広州都督裴伷先が投獄された際も嘉貞は杖刑を求めたが、兵部尚書張説は「刑は大夫に上らずというのは君主に近い者だからだ、士は殺されても辱められない、姜皎は三品で微功もある、罪あれば死罪か流罪とすべきで杖刑で廷辱すべきでない、律には八議があり勲貴もこれに含まれる、伷先はただ状に基づき流罪とすべきで軽々しく決罰すべきではない」と反論、玄宗はこれに従った。
- 嘉貞は不快に思い「なぜそこまで深く論じるのか」と説に問うと、説は「宰相は時が来れば就くもの、いつまでも保てるとは限らない、貴臣が皆杖刑を受けるなら我々にもいずれ及ぶ、これは伷先のためでなく天下の士君子のために言っている」と答えた。もとは嘉貞が兵部員外郎の時、説はその侍郎であったが、今は説が嘉貞の下位にあり嘉貞が謙譲しないことに説は不満を抱いており、この発言で嘉貞を怒らせたため両者は不和になった。玄宗は嘉貞の弟嘉祐も金吾将軍としたため兄弟共に将相の位にあり時人に畏憚された。十一年、玄宗の太原行幸中、嘉祐の収賄が発覚、張説は嘉貞に素服して待罪させ謁見を許さず、幽州刺史に出して自ら中書令に代わった。嘉貞は恨み「中書令は二員あるのに、なぜそこまで我を迫害するのか」と人に語った。翌年、戸部尚書・兼益州長史・判都督事に復し、中書省での宰相の宴に招かれた際、説への恨みから袖をまくり罵倒し、源乾曜・王晙が仲裁した。
- 翌年、王守一との交際に連座し台州刺史に左遷。のち盧従願に代わり工部尚書・定州刺史・知北平軍事となり河東侯に累封された。赴任の際、玄宗は自ら詩を賦し百僚に上東門外での餞別を命じた。定州では恒嶽廟に頌を立て自ら文を作り石に刻んだ、碑は白石を用い黒文で優美と評された。以前、嶽祠には遠近から祈願の銭数百万が集まっていたが、嘉貞は頌文の功として数万を自ら受け取った。十七年、病により東都で医療を受けることを願い出て許された。目が見えなくなり玄宗は医官田休裕・呂弘泰を急使で遣わせ治療させたが、その秋に卒去、享年六十四、益州大都督を追贈され諡は恭粛。
- 嘉貞は長く清要の官を歴任しながら田園を持たなかった。定州にあった頃、親しい者が田産を持つよう勧めると「私は宰相まで務めた身、死ぬまで飢えることはあるまい、もし譴責を受ければ富んだ荘園も無用になる。近頃見るに朝士が良田を広く占有しても没後は皆無頼の子弟の酒色の資となる、まったく無意味だ」と述べ、聞く者は皆感服した。
- 嘉貞が宰相であった頃、万年県主簿韓朝宗を推薦し監察御史に抜擢した。嘉貞の没後十数年、朝宗が京兆尹となった際「陛下御即位以来の宰相は皆礼をもって進退し、身は没しても子孫は皆朝廷にある、ただ張嘉貞だけは晩年に一子があるが未だ官途についていない」と奏上、玄宗は驚いて召し出し延賞と名付け左内率府兵曹参軍を特に授けた。この延賞は徳宗朝で宰輔に至り、別に伝がある。
張嘉貞の弟 嘉祐
- 嘉祐は才略があり、右金吾将軍から浦陽府折衝に貶められ、二十五年、相州刺史となった。相州では開元以来、刺史が死去や左遷に遭う者が十数人に及んでいたため、嘉祐は北周末の相州総管尉遅迥が国難に殉じたことを調べ、その神祠を建てて福を祈った。三考(任期満了)を経て左金吾将軍に改まった。のち呉兢が鄴郡守となった際にも尉遅の神に冕服を加えたところ、以後郡守に患いはなくなったという。