舊唐書卷九十八 列傳第四十八 源乾曜

出自と諫言

  • 源乾曜は相州臨漳の人。隋の比部侍郎源師の孫。父直心は高宗の時に司刑太常伯となったが事に連座し嶺南に流されて没した。乾曜は進士に及第、景雲中、諫議大夫に累進した。長らく廃されていた公卿百官の三九射礼について、乾曜は上疎し、古の聖王は礼をもって人情を正し、礼が廃れれば楽も崩れることを説き、射礼の廃止は費用を惜しむための措置だが、費やすのは財で守るのは礼であると孔子の言(「爾は其の羊を愛しむ、我は其の礼を愛しむ」)を引いて復活を求めた。乾曜はまもなく梁州都督として出た。

玄宗朝の重用

  • 開元初、邠王府の僚吏に法を犯す者があり、玄宗が王府長史にふさわしい人物を求めた際、太常卿姜皎が乾曜の清廉と吏才を推薦、玄宗は召見してその受け答えの明晰さを喜び、少府少監・兼邠王府長史に拝した。まもなく戸部侍郎・兼御史中丞、さらに尚書左丞に転じ、四年冬、黄門侍郎・同紫微黄門平章事に抜擢されたが、十日で姚元之(崇)と共に知政事を罷免された。
  • 東都行幸の際、乾曜は京兆尹・京師留守となった。政は寛簡で厳しくせずとも治まった。ある時、仗内の白鷹が逃げて茨に掛かり死んだ事件で官吏が処罰を恐れたが、乾曜は「事故は常のこと、罪を問われれば自分が引き受ける」と述べ、自ら失旨の罪を請うたため玄宗は不問に付し、人々は乾曜が事に臨んで動じず自ら過ちを引き受ける姿勢に感服した。京兆に三年在任し政令は一貫していた。
  • 八年春、再び黄門侍郎・同中書門下三品となり銀青光禄大夫を加えられ侍中に遷った。のち上疎し、有力者の子弟が皆京職を求め有能な人材が外官に回されている現状を憂い、自らの三子がいずれも京官にあることを挙げて二人を外官に出すよう願い出た。玄宗はこれに従い、子の河南府参軍弼を絳州司功、太祝絜を鄭尉に改めさせ、これを機に父子兄弟三人が共に京司に在る者は資次に従い異動させる制度を定め、公卿子弟で京官から外に出た者は百余人に及んだ。のちある者が「執政の重臣を篤く遇さねば忠誠を尽くさせられない」と上書し、十年十一月、中書門下に実封三百戸を共に食む制度が敕され、乾曜と張嘉貞から始まった。
  • 乾曜はのち東封に扈従し尚書左丞相となり侍中を兼ねた。政事に十年携わったが、張嘉貞・張説が相次いで中書令となった際は権を争わず何事も譲り、李元紘・杜暹が知政事となってからは議に参与せず署名するのみとなった。乾曜は元々姜皎の推挙で登用されたが、皎が罪を得て張嘉貞に排斥された際、乾曜は救わず、識者はこれを譏った。十七年夏、侍中の兼官を停め、その秋、太子少師に遷ったが祖父の名(師)に触れるとして固辞し太子少傅・安陽郡公に封じられた。十九年、玄宗の東都行幸に老病で従えず京に留まり養生していたが、その年の冬に卒去、幽州大都督を追贈され、玄宗は洛城南門で挙哀し朝を二日停めた。

源乾曜の従孫 光裕

  • 乾曜の従孫光裕も名声があった。歴任した官で清謹と称され諸弟を友愛をもって扶けた。初め中書舎人となり楊滔・劉令植らと共に『開元新格』の刪定に携わった。刑部・戸部の侍郎、尚書左丞を歴任、鄭州刺史に累進し良吏と称された。まもなく卒去した。

光裕の子 洧

  • 光裕の子洧も早くから評判が良く、家庭は睦まじく士友に推され清要の官を歴任した。天宝中、給事中・鄭州刺史・襄州刺史・本道採訪使を務めた。安禄山が反し東京を陥落させると、洧は江陵郡大都督府長史・本道採訪防禦使・摂御史中丞となり、兵部郎中徐浩を襄州刺史・本州防禦守捉使として防備させた。洧は任地で卒去した。