舊唐書卷九十八 列傳第四十八 盧懷愼

出自と諫言三篇

  • 盧懷愼は滑州霊昌の人。先祖は范陽に住み山東の名族であったが、祖父悊が霊昌令になったのを機に移住した。懐愼は若くから清廉謹直で進士に及第し監察御史・吏部員外郎を歴任、景龍中、右御史台中丞に遷り時政の得失を上疎した。うち三篇が伝えられる。
  • 一篇目:子産が鄭の宰相となり法令を改めた際、初め民に怨まれたが数年で慕われたことを引き、州牧・上佐・両畿県令の任期が短く(多くて一二年、少なくて三五ヶ月)業績を問わず頻繁に交代する弊害を指摘。官吏が長く在任しないため民が教化に従わず、官吏も力を尽くさず地位を保つことだけを図る現状を「国の病」と評し、漢の宣帝が良吏黄霸を頴川から動かさず功に応じて加増した先例を挙げ、四考(任期の考課四回分)に満たない者の異動を禁じ、業績に応じて褒賞・降格を明確にするよう提言した。
  • 二篇目:唐虞・夏商の官制を引き「官は必ずしも備えず、才を用いる」ことの意義を説き、京の諸司の員外官が数十倍に膨れ上がり俸禄が府庫を空しくしている現状を批判。有能な員外官は州牧・県宰に昇進させ、老病や無能な者は罷免すべきと提言した。
  • 三篇目:不正な官吏の弊害を「猛火」「大風」に喩え、収賄・不正で処罰された者が間もなく旧位に復し、あるいは遠地への軽い懲罰に留まる実情を批判。左遷された官吏は改悛せず、遠隔の州郡ばかりが悪政の被害を受けていると指摘し、孟嘗・隠之・郅都・耿恭ら清廉な官の故事を引きつつ、収賄が実証された官吏は十数年間登用しないよう提言した。
  • いずれも聞き入れられなかった。累進して黄門侍郎、漁陽伯に封じられた。

伴食宰相と薨去

  • 先天二年、侍中魏知古と共に東都で選事を分掌、まもなく召還され同中書門下三品。開元三年、黄門監に遷った。懐愼は紫微令姚崇と共に枢密を掌ったが、自ら吏道が崇に及ばないと考え何事も崇に譲ったため、時人は彼を「伴食宰相」と呼んだ。四年、吏部尚書を兼ねたが、その秋病篤く辞職を願い出て許された。十日ほどで卒去、荊州大都督を追贈され諡は文成。
  • 臨終の遺表では、自らの才の乏しさを述べつつ、宋璟(公直・貞固で経世の学に富む)・李傑(勤勉抜群で公事に尽力)・李朝隠(節操堅固で法を守る)・盧従願(清貞で理識周密)の四名の登用を推薦した。玄宗はこれを深く嘉納した。
  • 懐愼は清廉倹約で産業を営まず、器物・服飾に金玉綺文の華美なものがなく、得た俸禄はその都度分け与え家に蓄えがなく妻子も困窮した。玄宗が東都に行幸する際、四門博士張星が「懐愼の忠清な生涯に褒賞がなければ善行を勧められない」と上言し、物百段・米粟二百石を賜る詔が下った。翌年、玄宗が城南で狩猟の折に懐愼の別業に立ち寄り、家人が貧しく祥斎(追善供養)を営む様子を見て絹百匹を賜り、中書侍郎蘇頲に碑文を作らせ玄宗自ら筆をとった。

盧懷愼の子 奐

  • 子の奐は早くから身を修め、歴任した官では清廉と評された。開元中、中書舎人・御史中丞・陝州刺史を歴任。二十四年、玄宗が京師に行幸し陝城の頓に至った際、奐の善政を認め庁事に賛を題して去った。まもなく兵部侍郎に除された。
  • 天宝初、晋陵太守。当時、南海郡は水陸の利を兼ね珍宝が山積し、劉巨鱗・彭杲が相次いで太守・五府節度となったがいずれも巨額の贓罪で死んだ。そこで特に奐を南海太守に任じたところ、遠方の地で貪官が姿を消し民が安堵した。開元以来四十年で広府節度の清廉な者は宋璟・裴伷先・李朝隠・奐の四人とされた。中使の市舶(貿易)も不正を働かなかった。銀青光禄大夫を加えられ、三年後に尚書右丞に入り卒去した。
  • 弟の弈も清廉で知られ御史中丞を歴任し王事で死んだ(別に『忠義伝』に見える)。弈の子杞は徳宗朝で宰輔に至り、別に伝がある。