出自と剛直な裁定
- 李元紘、その先祖は滑州の人で代々京兆万年に住んだ。本姓は丙氏。曾祖父粲は隋大業中に屯衛大将軍。関中で賊が起こった際、煬帝の命で京城以西二十四郡の盗賊を追捕し衆望を得た。義旗(唐の挙兵)が関に入ると衆を率いて帰順し、宗正卿・応国公に封じられ李姓を賜った。高祖と旧交があり左監門大将軍に遷り、老いてなお宮中で乗馬したまま検校を許された。八十余歳で卒し、諡は明。祖父寛は高宗の時に太常卿となり隴西郡公に別封された。父道広は則天の時に汴州刺史となり、突厥・契丹が河北を侵した際、河南諸州の兵募が動員され騒然とする中、寛猛を調和させ善政と評され、汴州だけは民が逃散しなかった。のち殿中監・同鳳閣鸞台平章事に入り金城県侯に累封、卒後、秦州都督を追贈され諡は成。
- 元紘は若くして謹厚、初め涇州司兵、のち雍州司戸に累進した。太平公主が僧寺と水車の権利を争った際、公主の権勢を恐れ百司が皆その意向に阿る中、元紘は僧寺の側に裁定を下した。雍州長史竇懐貞が太平の勢いを恐れ裁定を改めさせようとしたが、元紘は判の後ろに「南山は移せても、この判決は決して動かさない」と大書し、最後まで裁定を曲げなかった。まもなく好畤令に転じ、潤州司馬に遷り、歴任した官はいずれも評判が良かった。
- 開元初、三たび遷って万年県令となり賦役は公平で厳しくせずとも治まった。まもなく京兆尹に抜擢され三輔の訴訟処理を命じられた。諸王公・権要の家が水路に沿って水車を立て水田を害していたため、元紘は吏に命じてこれを一切撤去させ百姓は大いに利を得た。さらに工部・兵部・吏部の三侍郎を歴任した。十三年、戸部侍郎楊瑒・白知愼が支度の失当により刺史に出された際、玄宗は宰臣・公卿に戸部にふさわしい人材を精選させ、多くが元紘を推薦、戸部尚書に任じようとしたが執政は資歴が浅いとして中大夫を加え戸部侍郎に留めた。元紘は民間の利害と時政の得失を上奏し、玄宗は大いに喜び衣一副・絹二百匹を賜った。翌年、中書侍郎・同中書門下平章事に抜擢され、まもなく銀青光禄大夫を加えられ清水男に封じられた。
清廉な宰相と国史統合の建議
- 元紘は清廉倹約で、知政事となってからは奔競の風を抑えたため昇進を求める者に恐れられた。当時、京司の職田が廃止され関輔に屯田を置く議があったが、元紘は「軍と国とは制度が異なり、官員の退職田は各県に散在し集められず、百姓の私田も強制取得できない、内地に屯田を置くのは前例がなく損失の恐れがある」と論じ、この議は止まった。
- 以前、左庶子呉兢が史官として『唐書』百巻・『唐春秋』三十巻を編纂していたが、未完のまま喪に服し職を退いていた。元紘は上疎してその完成を願い出、詔で集賢院にてこれを続けさせることとなった。さらに張説が致仕した後は在宅で修史させていたが、元紘は「国史は君主の善悪・国政の損益を記す重要な事業であり、張説が在宅で修史し呉兢が集賢院で編纂するのでは国の大典が数か所に分散してしまう。太宗が禁中に史館を置いたのはその職を重んじ機密を守るためである」と述べ、説らを史館に集めて撰録させるよう提言、これが採用された。
- 元紘は長年政事にあったが邸宅を改めず、僕馬も粗末なままで、封物は皆親族に分け与えた。右丞相宋璟はこれを嘆賞し「李侍郎は宋遙の美才を推挙し劉晃の貪欲を退けながら、国相の地位にあって家に蓄えがない、季文子の徳もこれに勝るまい」と評した。のち杜暹と意見が対立して不和となり、互いに奏上を争うに至って玄宗の不興を買い知政事を罷免、曹州刺史に出て病により官を去った。のち戸部尚書を拝したが致仕を許された。二十一年、病が癒えて太子詹事に起用されたが十日ほどで卒去。太子少傅を追贈され諡は文忠。