舊唐書卷九十七 列傳第四十七 張説

出自と則天朝

  • 張説、字は道済。先祖は范陽の人で代々河東に住み、のち河南洛陽に移った。若くして科挙対策で乙第に及第、太子校書を経て右補闕に転じ、『三教珠英』の編纂に加わった。
  • 久視年間、則天が三陽宮に行幸し夏から秋まで還都しなかったため、説は上疏して諫めた。三陽宮は洛陽から百六十里離れ伊水と崿阪の険があり、夏秋は水害で輸送が困難であること、宗廟のある都を離れ僻地に留まるべきでないこと、宮室が狭小で万民が集まり居所を追われた民が路傍で風雨に晒されること、池亭の造営が農桑の地を奪い労役が過重であること、御苑の警備が緩く猛獣や不審者の危険があることを述べ、早期の還都を求めた。上疏は聞き入れられなかった。

中宗・睿宗朝

  • 長安初、『三教珠英』完成後、右史・内供奉となり知考功貢挙事を兼ね鳳閣舎人に抜擢された。張易之・昌宗が御史大夫魏元忠を謀反の罪で陥れようとし説に証言を強要したが、説は御前で「元忠は謀反しておらず、これは易之の讒構である」と述べ、元忠は死を免れた。説自身は勅旨に背いたとして欽州に流され嶺外で一年余りを過ごした。
  • 中宗即位後、兵部員外郎に召還され工部侍郎に転じた。景龍中、母の喪に服し、起復して黄門侍郎を命ぜられたが固辞して喪を全うし、識者に大いに称賛された。喪明けの後、工部侍郎、のち兵部侍郎に拝され弘文館学士を加えられた。
  • 睿宗即位後、中書侍郎・雍州長史に遷った。景雲元年秋、譙王重福が東都で謀反し死んだ事件で留守が数百人を捕らえたが取り調べが長引き、説が一夜のうちに首謀者張霊均・鄭愔らを捕らえ真相を明らかにし、冤罪の者は釈放した。睿宗は「良善を冤罪にせず罪人も見逃さなかった」と労った。

玄宗擁立への功と宰相拝命

  • 玄宗が東宮にあった頃、説は国子司業褚無量と共に侍読を務め深く信任された。翌年、同中書門下平章事・監修国史。睿宗が「五日以内に宮中に急変が起こると術者が言う」と側近に相談した際、説は「これは東宮を揺るがす讒言であり、太子に監国させれば君臣の分が定まり災難は生じない」と進言、睿宗はこれに従い皇太子監国を命じ、翌年帝位を譲った。
  • 太平公主が蕭至忠・崔湜らを宰相に引き入れ、説が自派に付かないとみて尚書左丞に転じさせ知政事を罷免、東都留守とした。説は太平一派の陰謀を察知し佩刀を玄宗に献上して先手を打つよう進言、玄宗はこれを深く納得した。至忠らが誅された後、中書令に抜擢され燕国公に封じられ実封二百戸を賜り、冬に紫微令へ改称された。
  • 則天末年から冬に「潑寒胡戯」(水を掛け合う異民族の遊戯)が行われ中宗も見物していたが、蕃夷入朝の折に再び行われようとした際、説は「礼楽をもって接し兵威を示すべきで、裸足で跳び回る戯れは徳を損なう」と諫め、この戯れは以後絶えた。

辺境経略

  • 姚崇の讒言により相州刺史・河北道按察使に出され、さらに事件に連座して岳州刺史に左遷、実封三百戸を停止された。のち右羽林将軍・検校幽州都督に遷った。開元七年、検校并州大都督府長史・天兵軍大使・摂御史大夫・修国史を兼ね、史書を携えて軍中で編纂を続けた。
  • 八年秋、并州の同羅・抜曳固ら九姓部落が朔方大使王晙による阿布思ら降虜千余人誅殺に動揺した際、説は軽騎二十人でその部落に直行して宿営し酋長を慰撫、副使李憲の忠告に対し「肉は黄羊にあらず、血は野馬にあらず、危険を見て命を投げ出すのが我が務め」と応じ、九姓は感義して安堵した。
  • 九年四月、胡賊康待賓が反乱し長泉県に拠り葉護と自称、蘭池等六州を陥落させた。王晙が討伐に赴き説も経略に加わり、叛胡と党項の連合軍を合河関から出撃して大破、駱駝堰まで追撃すると胡と党項は自滅、残党は鉄建山に逃げ込んだ。説は党項を招集し生業を復させ、副使史献が党項討伐を進言したが「先王の道は滅を推し存を固めるものであり、尽く誅せば天道に逆らう」と却下し、麟州を置いて党項を安置した。その年、兵部尚書・同中書門下三品を拝命し修国史も継続した。
  • 翌年、朔方軍節度大使として五城を巡視し兵馬を処置した。康待賓の残党である慶州方渠の降胡康願子が可汗を自称して反乱し監牧の馬を掠め河を渡ろうとしたのを撃破、木盤山でその家族を捕らえ処刑、男女三千余人を得てその党を平定した。河曲六州の残胡五万余口を許・汝・唐・鄧・仙・予等州に移し、河南の逆方千里の地を空にした。功により実封二百戸を加増された。
  • 辺境の鎮兵はかつて六十余万に達していたが、説は強敵がいないとして二十余万を罷免し帰農させることを奏上、玄宗が疑うと「辺境の実情を熟知しており兵は禦敵より私用に浪費されている、疑うなら一族百口を保証に差し出す」と述べ許可された。
  • 当番衛士が窮乏し逃亡が相次いだため、これを全て罷免し新たに強壮な兵を募集する策を建て、十日で精兵十三万人を得て諸衛に配属した。これがのちの彍騎の起源となった。

封禅と集賢院

  • 玄宗が帰京の際に并州へ行幸しようとすると、説は「太原は王業発祥の地、行幸し碑を建て徳を記すべき」と進言して従われた。さらに後土祭祀の礼を復活させるよう進言しこれも実現、後土祭祀の後、張嘉貞に代わり中書令となった。夏四月、玄宗は詔で説の忠実な政務を褒めた。
  • 説は封禅を最初に提議した。十三年、徐堅・韋縚らと東封の儀注を撰し、旧儀の不便な点を多く改めた(詳細は礼志に記載)。玄宗は説らを集仙殿に招き宴を賜り「賢才と同宴するので集賢殿と改名すべし」と述べ、麗正書院を集賢殿書院に改称、説に集賢院学士・知院事を授けた。
  • 東封に際し説は右丞相兼中書令、源乾曜は左丞相兼侍中となり泰山に登った。説は「封禅壇頌」を撰して聖徳を記した。源乾曜は本来封禅に消極的だったが説がこれを助成したため、両者の間には次第に軋轢が生じた。登山の際、説は近しい者を供奉官・主事として従わせ品階を破格に昇進させたが他の官はほとんど昇進せず、随行の兵士も勲位のみで賜物がなく、内外の怨みを買った。
  • 御史中丞宇文融が天下の逃戸・籍外剰田を検括する策を献じ十道勧農使を置いたが、説はこれを民を騒がすとして反対した。東封の帰途、融は吏部に十銓を分置する策を密奏し礼部尚書蘇頲らと選事を分掌したが、融らの上奏は説に抑えられ銓衡が乱れた。

弾劾と失脚

  • 融は御史大夫崔隠甫・中丞李林甫と共に、説が術士を用いて夜中に霊を招いたことや収賄を弾劾、源乾曜・刑部尚書韋抗・大理少卿胡珪・御史大夫崔隠甫が尚書省で取り調べた。説の兄光は朝堂で耳を割いて冤罪を訴えた。中書主事張観・左衛長史範堯臣が説の権勢を借りて賄賂を偽り取り、私度僧王慶則が説と占いを行っていたことも発覚し、隠甫らに罪を認めさせられた。
  • 説は二晩取り調べを受け、玄宗が高力士に様子を見させると「藁の上に座り瓦器で食事し、髪も乱れ憂懼している」と報告があり、玄宗は憐れみを覚えた。高力士も「説はかつて侍読を務め国に功がある」と弁護し、玄宗は中書令の兼官を停めるにとどめた。張観・王慶則は杖殺され、連座して十余人が左遷された。隠甫・融らは説の復権を恐れ再び密奏で誹謗し、翌年、説は致仕を命ぜられ在宅で修史を続けることとなった。

晩年と薨去

  • 説が宰相であった当時、玄宗は吐蕃討伐を望んだが説は密かに和親を勧め辺境の平安を図ったものの聞かれず、瓜州が陥落し王掞が死ぬと、説は巂州の闘羊を献上する上表を通じて諷諭した。剛毅な闘羊にことよせ、陛下が良将を求め真に戦う者を用いるべきことを説く内容で、玄宗はその意を悟り絹と雑彩千匹を賜った。
  • 十七年、尚書左丞相・集賢院学士に復帰し、源乾曜に代わり尚書左丞相となった。就任の日、玄宗は供帳・音楽を設け酒食を賜い御製詩一篇を賜った。まもなく修謁陵儀注の功により開府儀同三司を加官。長子均は中書舎人、次子垍は寧親公主の駙馬都尉となり、兄光も銀青光禄大夫を特授され、当時の栄寵は並ぶ者がなかった。
  • 十八年、病を得て玄宗が日々使者を送り薬方を賜った。十二月に薨去、享年六十四。玄宗は深く悲しみ光順門で挙哀、翌年正月の朝会を取りやめ、説の功績と学識を称え太師を追贈し物五百段を賜る詔を下した。

人物評

  • 説は東宮時代から玄宗に厚遇され、太平公主が権勢を振るった際も独りその党に与せず太子監国を進言して内難を鎮めた、開元の功臣であった。三たび大政を執り文学の任を三十年務めた。文才は精緻で朝廷の重要文書はすべて特命で撰述し、天下の詞人がこれを誦じた。碑文・墓誌に特に長じ当代随一と称された。
  • 後進の登用を好み、封禅・後土祭祀・五陵参拝・集賢院創設・太宗の政の継承などはすべて説が主導した。義理を重んじ然諾を守った。中書舎人徐堅が集賢院学士の待遇を過分として廃止を主張した際、説は「聖上は儒を尊び道を重んじ図書を校訂し学者を招く、麗正書院はその礼楽の司であり永代の規模、廃すべきでない」と反論し、玄宗はこれを聞き堅を疎んじた。
  • 説は知政事を罷免された後は専ら集賢文史の任に当たり、軍国の大事には玄宗が中使を遣って可否を尋ねた。父騭の碑文を自ら撰し、玄宗が碑額を「嗚呼、積善之墓」と御書した。文集三十巻がある。太常の諡議は「文貞」としたが左司郎中陽伯誠が異議を唱え、工部侍郎張九齢が太常の議に従うべきと主張し紛糾、最終的に玄宗が自ら神道碑文を撰し「文貞」の諡を賜って定まった。

張説の子 均

  • 均・垍はいずれも文才に優れた。説が中書にあった頃、兄弟は既に詔勅起草の任にあった。父の喪が明けると均は戸部侍郎、のち兵部に転じた。二十六年、事に坐して饒州刺史に左遷、太子左庶子として召還され再び戸部侍郎となり、九載、刑部尚書に遷った。
  • 才名により自ら宰輔となるべきと任じていたが李林甫に抑えられた。林甫の死後、権臣陳希烈に取り入り必ず地位を得ようとしたが、楊国忠が用事すると希烈を嫌い知政事を罷免、韋見素を後任とし、均は大理卿とされ大いに失望した。
  • 安禄山の乱では偽命を受け中書令となり賊の枢衡を掌った。李峴・呂諲が賊に降った官を弾劾した際、均は死罪に相当したが、粛宗は説への旧恩により死を免じ合浦郡に長流した。

張説の子 垍

  • 垍は駙馬として玄宗の格別の恩寵を受け、禁中に内宅を与えられ文章に侍り珍玩を数え切れないほど賜った。兄均も翰林院に供奉しており、賜物を見せると均は「これは舅と婿の関係であって、天子が学士に賜うものではない」と戯れた。
  • 天宝中、玄宗が垍の内宅に行幸し「希烈がしばしば辞任を願うが後任は誰が良いか」と尋ねると垍は驚き応えられず、玄宗は「我が愛婿以外にあるまい」と述べ、垍は階を降り謝した。楊国忠はこれを聞き嫌悪、希烈罷免後は韋見素を推挙し垍は深く失望した。
  • 天宝十三年正月、范陽節度使安禄山が入朝し奚・契丹討伐の功で寵愛を受け、平章事を求めたが国忠が「軍功はあっても文字を知らぬ者に宰相を授ければ四夷に軽んじられる」と諫め、玄宗は左僕射を加えるにとどめた。禄山が鎮に還る際、高力士が浐坡で餞別し、玄宗が「禄山は満足したか」と問うと力士は「宰相の命が実現しなかったことを恨んでいる様子」と答えた。国忠に告げると国忠は「これは張垍が漏らしたに違いない」と述べ、玄宗は怒って垍兄弟を皆逐い、均を建安太守、垍を盧渓郡司馬、埱を宜春郡司馬とした。年内に召還され再び太常卿に遷った。
  • 安禄山の乱で玄宗が蜀に行幸した際、韋見素・楊国忠・魏方進らが従ったが多くの朝臣は従わなかった。咸陽に至り玄宗が高力士に「昨日は慌てて出発し朝官の行方が分からぬが今日は誰が来るか」と問うと、力士は「張垍兄弟は代々国恩を受け姻戚でもあるので必ず来る。房琯は宰相の器で禄山にも重んじられていたので来ないだろう」と答えたが、玄宗は「まだ分からぬ」と述べた。その日房琯が到着し玄宗は大いに喜び均・垍について尋ねると、琯は「出発時に均の家に立ち寄り同行を約したが、均は『城南で馬を調達している』と伝えてきた。その様子から来る意志は薄かった」と答えた。果たして均兄弟は禄山の偽命を受け、垍は陳希烈と共に賊の宰相となり、賊中で死んだ。

附 陳希烈

  • 陳希烈は宋州の人。玄学に精通し博覧強記であった。開元中、玄宗が経義に関心を寄せ、褚無量・元行沖の死後、希烈と鳳翔人馮朝隠が禁中で『老子』『易経』を講じた。秘書少監に累進、張九齢に代わり集賢院事を専判し、玄宗の撰述はすべて希烈の手を経た。
  • 李林甫は玄宗の寵愛を知り、また希烈が温和で制しやすいことから宰相に引き入れ、共に政を執り親密だった。林甫が長く在位できたのは陰謀に加え希烈の補佐力にもよる。兵部尚書・左相を兼ね、頴川郡開国公に封じられ林甫に匹敵する寵遇を受けた。
  • 林甫の死後、楊国忠が用事し希烈を嫌い韋見素を宰相に引き入れ、希烈は知政事を罷免され太子太師となり深く失望した。安禄山の乱では張垍・達奚珣と共に賊の枢衡を掌り、六等の罪定めで斬罪に相当したが、粛宗は玄宗の旧恩により自宅で死を賜った。

史論

  • 史臣曰く: 劉幽求(徐国公)は非凡な才を持ち混乱の時運に遭い、決断と献策で中興を助け、一夜にして徒歩の身から公侯の位に昇った。命を軽んじ利を重んじ、不義を恥じぬ者でなければこの位には至れなかっただろう。郭代公(元振)・張燕公(説)は儒服を脱いで将壇に登り異民族の脅威を断ち、政務についても隆平をもたらした。文武を兼ね備えた者は申(申国公)と甫(甫侯)にのみ比すべきである。惜しむらくは均・垍が功を急ぎ賊庭に節を失ったことである。武徳以来、賢相と称される房玄齢・杜如晦・姚崇・宋璟の四公も皆、不肖の子弟に先業を汚されており、燕国公(張説)だけの不幸ではない。陳希烈は柔和で智に富み名理に長じたが、結局その名によって死んだ。離婁(目の良さで知られた古人)が自らの睫毛を見られないのと同じく、(何晏)平叔・(王弼)太初と同じ病弊であった。
  • 贊にいう: 箕子・微子は紂王のもとを去り、閎夭・散宜生は周の興隆を助けた。義に外れた謀は、たちまち滅びに至る。劉幽求は不遇であったが、張道済(説)は誠に善であった。偉なるかな郭侯(元振)、勲徳は輝かしい。