舊唐書卷九十七 列傳第四十七 郭元振

出自と対吐蕃外交

  • 郭元振は魏州貴郷の人。進士に挙げられ通泉尉に任じられた。任侠で細事に拘らず、赴任地の千余人を売って賓客に贈るなど百姓を苦しめたが、則天がその名を聞いて引見し奇才と認めた。吐蕃が和議を求めた際、右武衛鎧曹として吐蕃に使いし、吐蕃の大将論欽陵が四鎮の兵の撤退と十姓の地の分割を求めたため、朝廷は元振に事情の探索を命じた。
  • 帰還した元振は上疏し、四鎮の患いは遠く甘・涼の患いは近いこと、まず内を固めてから外に当たるべきことを説き、欽陵には「四鎮は本来吐蕃を牽制するために置いたもので、東侵の意がなければ吐蕃・吐渾諸部と青海の故地を返す」と回答するよう提案した。則天はこれに従った。元振はさらに、吐蕃の大将論欽陵と吐蕃の民との離間を図る策を上言し、則天は大いに是とした。数年のうちに吐蕃の君臣は互いに疑い合うようになり、大将論欽陵を誅殺、弟の賛婆と甥の莽布支が来降し、元振は河源軍大使夫蒙令卿と共にこれを迎えた。のち吐蕃将麹莽布支が侵攻すると涼州都督唐休璟がこれを破り、元振はその謀に参与した功で主客郎中を拝した。

涼州経営

  • 大足元年、涼州都督・隴右諸軍州大使に遷った。それまで涼州の境域は南北四百余里にすぎず突厥・吐蕃に迫られ、両寇はたびたび城下に至り百姓を苦しめていた。元振は南境に和戎城、北の磧中に白亭軍を置いて要路を扼し、州境を千五百里に拡げ、以後寇虜は再び城下に至らなくなった。
  • 甘州刺史李漢通に屯田を開かせ水陸の利を尽くさせると、旧来数千に達していた粟の価格が数年の豊作で絹一匹で数十斛買えるまでに下がり、軍糧を数十年分蓄えた。元振は風貌堂々として撫御に長じ、涼州在任五年で夷夏に畏慕され、令行禁止、牛羊が野に満ち道に落し物があっても拾う者がなかった。

安西都護としての西域経営

  • 神龍中、左驍衛将軍・検校安西大都護に遷った。西突厥の首領烏質勒が款塞し通和した際、元振はその牙帳で軍事を協議し、大雪の中立ち尽くしたため、老齢の烏質勒が寒さに耐えかね協議後に死去した。その子娑葛は元振のせいで父が死んだと考え兵を率いて攻めようとしたが、副使解琬が夜逃げを勧めても元振は「誠信をもって人に接してきた、深く敵地にありながら逃げてどこへ行けるか」と応じず、翌日自ら虜帳に入り哀しみをもって哭礼を行った。娑葛はこの義に感じて通好を回復し、馬五千匹と方物を献上、元振は金山道行軍大総管に任じられた。
  • その後、娑葛と阿史那闕啜忠節の不和により闕啜の兵が寡弱化したため、元振は闕啜を入朝させ部落を瓜・沙州へ移すよう奏請し許可された。しかし闕啜は播仙城で経略使周以悌の説得(入朝すれば命の保証もない、安西兵を発し吐蕃を引き入れて娑葛を撃ち、阿史那献を可汗に立てて十姓を招き、郭虔瓘に抜汗那で甲馬を徴させれば復讐でき部落も保てる、という進言)を受けてこれに従い、于闐の坎城を攻略して金宝・生口を得、賄賂を宗楚客・紀処訥に贈った。
  • 元振はその謀を知って上疏し、吐蕃との関係の由来、闕啜が吐蕃の手先となる危険、阿史那献を可汗に立てても十姓を招けないこと(先例として阿史那元慶・仆羅・俀子・斛瑟羅・懐道がいずれも十姓を招けなかったこと)、郭虔瓘の抜汗那徴発が弊害をもたらすことなどを詳しく述べたが、上疏は聞き入れられなかった。
  • 宗楚客らは闕啜の賄賂を受け、馮嘉賓に闕啜を安撫させ、御史呂守素に四鎮を処置させ、牛師奨を安西副都護として吐蕃討伐に当たらせようとした。娑葛はこれを知り安西・撥換・焉耆・疏勒の四方から各五千騎を発し、闕啜を生け捕りにして馮嘉賓らを殺害、呂守素・牛師奨も殺され、安西が陥落して四鎮への道が絶えた。宗楚客はさらに周以悌に元振を代えさせようとし、阿史那献を十姓可汗に立てて焉耆に軍を置き娑葛討伐を図った。娑葛は元振に書を送り「宗楚客が闕啜の金を受け我らを陥れようとした」と訴えた。元振がその状を奏上すると楚客は怒って元振に異図ありと讒言、元振は子の鴻を通じて密奏し、結局周以悌が罪を得て白州に流された。元振が代わって統率し娑葛の罪を赦し十四姓可汗に冊立、西域の情勢が定まらないとして帰京を延引した。

太平公主誅滅への功と晩年

  • 宗楚客らが誅殺されると睿宗が即位し、元振は太僕卿・銀青光禄大夫に召還された。景雲二年、同中書門下三品となり宋璟に代わって吏部尚書、のち兵部尚書に転じ館陶県男に封じられた。老いて郷里にいた父愛のために済州刺史を授け致仕を許した。その冬、韋安石・張説らと共に知政事を罷免された。先天元年、朔方軍大総管となり定遠城を築いた。翌年、再び同中書門下三品。
  • 蕭至忠・竇懐貞ら太平公主一派の謀反を玄宗が誅する際、睿宗が承天門に登り元振自ら兵を率いて護衛した。功により代国公に進封、実封四百戸・物千段を賜り、御史大夫を兼ね朔方道大総管として突厥に備えたが赴任しなかった。
  • 玄宗が驪山で軍事演習を行った際、軍容が乱れたとして纛の下に座らせ斬ろうとしたが、劉幽求・張説が馬前で「元振には輔佐の大功がある、罪があっても赦されるべき」と諫めたため赦され新州に流された。まもなく旧功を思い起こされ饒州司馬に起用されたが、功を恃んで志を得ず、道中で病没した。開元十年、太子少保を追贈された。文集二十巻がある。