出自と韋后誅殺への参画
- 劉幽求は冀州武強の人。聖歴年間に科挙に応じ、閬中尉に任ぜられたが刺史に冷遇され辞官した。のち朝邑尉に転じた。
- 桓彦範・敬暉らが張易之兄弟を誅殺しながら武三思を殺さなかったことを危ぶみ、「早く図らねば後悔しても及ばない」と忠告したが聞き入れられず、桓・敬らはのちに武三思の讒構により嶺外で死んだ。
- 韋后が簒奪を図ると、幽求は玄宗と密謀してこれを討ち、苑総監の鍾紹京・長上果毅の麻嗣宗・太平公主の子薛崇暕らと共に夜、禁中に入って討平した。この夜に下された制勅百余通はすべて幽求の起草によるもので、功により中書舎人に抜擢され機務に参与、中山県男に封じられ実封二百戸を賜った。子二人にも五品官が授けられ、祖父・父にも刺史が追贈された。
睿宗朝の重用と左遷
- 睿宗即位後、銀青光禄大夫・行尚書右丞となり知政事にとどまり、徐国公に進封、実封は通算五百戸に加増、物千段・奴婢二十人・宅一区・地十頃・馬四匹などを賜った。景雲二年、戸部尚書に遷り知政事を罷免。まもなく吏部尚書、さらに侍中に抜擢された。璽書の詔では、韋后専横の危機を救った功を大きく称え、実封二百戸を加え旧七百戸とし、死罪十回分を免ずる特権が与えられた。
- 先天元年、尚書右僕射・同中書門下三品・監修国史。幽求は自ら功が朝臣の上と思い左僕射兼中書令を望んだが、竇懐貞が左僕射、崔湜が中書令となり不満を露わにした。崔湜が太平公主に付き謀反を図っていると見た幽求は、右羽林将軍張暐に羽林兵で誅殺させようと図ったが、暐がその謀を侍御史鄧光賓に漏らしたため玄宗が大いに恐れ事を上奏、睿宗は幽求らを詔獄に下した。法官は死罪と奏したが玄宗の助命により幽求は封州に、暐は峰州に流された。
復権と晩年
- 太平公主が誅されると詔で幽求の功が改めて称えられ、金紫光禄大夫・尚書左僕射・知軍国事・監修国史・上柱国・徐国公に復し、実封七百戸・錦衣一襲を賜った。
- 開元初、尚書左右僕射が左右丞相に改称され、幽求は尚書左丞相・兼黄門監となったが、まもなく太子少保となり知政事を罷免。姚崇の讒言により睦州刺史に左遷され実封六百戸を削られ、のち杭州刺史、桂陽郡刺史と転じ、赴任の道中で憤死した。享年六十一。礼部尚書を追贈され、諡は文献、睿宗廟庭に配享された。建中三年、さらに司徒を追贈された。