舊唐書卷九十三 列傳第四十三 張仁愿
出自と初期の抵抗
- 張仁愿は華州下邽の人。もとの名は仁亶であったが、睿宗の諱に音が近いため改めた。若くして文武の才幹があり、殿中侍御史に累進した。御史郭霸が則天は弥勒仏の生まれ変わりであると上表し、また鳳閣舎人張嘉福らが武承嗣を皇太子に立てるよう請う運動で連署を求めた際、仁愿は正色してこれを拒み、識者に重んじられた。まもなく夏官尚書王孝傑の吐蕃防禦軍を監督する任に就いたが、孝傑と不和になり、その軍の実態を虚偽であると上奏し、孝傑は庶人に落とされた。仁愿自身は侍御史に昇進した。
監察の厳格さと辺境での武功
- 万歳通天二年、監察御史孫承景が清辺軍での戦況を誇張して報告したのを、仁愿が実情を調べて虚偽を暴き、承景は左遷された。仁愿は粛政台中丞・検校幽州都督に抜擢された。突厥黙啜の侵入で趙州・定州が陥落した際には、仁愿が出撃して撃退し、自らも矢傷を負った。その後、并州大都督府長史に累進した。
洛州長史としての治績
- 神龍二年、中宗の帰京に際し左屯衛大将軍・検校洛州長史となった。都で穀物が高騰し盗賊が横行すると、捕らえた者を悉く杖殺して府門に晒したため、遠近が震え上がり犯罪が絶えた。髙宗の時代に治績のあった賈敦頤と並び称され、「洛州には前に賈、後に張あり、京兆の三王に匹敵する」と評された。
三受降城の築城
- 神龍三年、突厥の侵入で朔方軍総管沙吒忠義が敗れると、仁愿が代わって統率し、退却した敵を追撃して大勝した。かねて朔方軍は黄河を境として突厥と対していたが、突厥が黙啜の西征で手薄になった隙に、仁愿は黄河北岸の漠南の地を奪って三受降城を築き、退路を断つことを献策した。唐休璟は労多くして守りきれないと反対したが、仁愿は強く主張し、中宗はこれを容れた。任期を終えた鎮兵を留めて工事に充て、逃亡兵二百余人を一斉に処刑して軍の士気を引き締め、六十日で三城を完成させた。拂雲祠を中城とし、東西両城とそれぞれ四百余里離して津渡に拠らせ、北方三百余里を新たに拓き、牛頭朝那山北に千八百箇所の烽火台を設置した。これにより突厥は山を越えて放牧できなくなり、朔方の侵略は絶え、鎮兵数万を削減できた。
築城の思想と晩年
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仁愿は三城建設に際し、壅門や防御施設をあえて設けなかった。理由を問われると「兵は攻めることが貴く、退いて守るべきではない。もし賊が来れば力を合わせて出撃すべきで、城を振り返る者は斬るべきだ、守備を設けて退く心を生じさせてはならない」と述べた。後任の常元楷が壅門を築いて守りを固めたことと対比され、識者は仁愿を重んじ元楷を軽んじたという。仁愿は朔方在任中、張敬忠・何鸞・寇泚・王易従・劉体微らを軍事担当に登用し、多くが後に高官に至ったため、人を見る目があると称された。
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景龍二年、左衛大将軍・同中書門下三品となり韓国公に累封された。春に帰朝し秋に再び辺境の軍を督した。中宗は詩を賦して餞別し、鎮軍大将軍を加えられた。睿宗即位後、老齢により致仕したが俸禄はそのまま支給され、兵部尚書・光禄大夫を加えられて致仕にとどまった。開元二年に没し、太子少傅を贈られた。子の之輔は開元初年に趙州刺史となった。