舊唐書卷九十三 列傳第四十三 薛訥

出自と藍田令時代

  • 薛訥は絳州万泉の人。左武衛大将軍薛仁貴の子。藍田令であったとき、御史中丞来俊臣が賄賂を受けて義倉の米を私債の弁済に流用させようとしたが、訥は「義倉は水害旱害への備えであり、一家の利のために万人の命綱を絶やせない」と拒んだ。まもなく俊臣が罪に問われ、この件は沙汰止みとなった。

辺境の将としての活躍

  • その後突厥が河北に侵入すると、則天は将門の出である訥を左武威衛将軍・安東道経略として起用した。出発に際し則天に召見された訥は、廬陵王(中宗)の廃立をめぐる不安が賊の口実になっていると進言し、則天はこれをもっともとした。幽州都督・安東都護を拝し、のち并州大都督府長史・検校左衛大将軍に転じ、辺鎮の任にあたって戦功を重ねた。

玄宗の講武と契丹討伐の失敗

  • 玄宗即位後、新豊での講武で左軍節度となり、元帥と礼官が罰せられ諸部の統制が乱れる中、訥と解琬の軍だけは動じず、玄宗の信頼を得た。契丹・奚が突厥と結んで辺患をなすと、訥は討伐を建言。開元二年夏、杜賓客・崔宣道らと二万の兵で契丹討伐に出発したが、盛夏の遠征を懸念する杜賓客・姚元崇の反対を退け、訥は「夏は草が茂り輜重の負担が少ない好機」と主張、玄宗もこれを容れて訥を同紫微黄門三品として総指揮させた。しかし六月、灤河で敵と遭遇し、暑さと諸将の連携不足から全軍が壊滅、訥は身一つで脱出した。崔宣道ら八人に敗戦の責を負わせて斬らせ、杜賓客のみ罪を免れさせた。訥自身も詔により官爵を全て剥奪された。

対吐蕃戦での雪辱と晩年

  • 同年八月、吐蕃の坌達延・乞力徐らが十万の兵で臨洮軍・蘭州・渭州渭源県を侵すと、訥は無位のまま左羽林将軍として隴右防禦使に起用され、大僕少卿王晙らと迎撃した。十月、渭源で戦い、王晙と挟撃して大勝、洮水まで追撃し長城堡でも戦った(この戦で豊安軍使王海賓が先鋒として戦死)。さらに敵を破って一万を殺獲し、将六指郷弥洪を捕らえ、羊馬・武器を多数得た。玄宗は親征を予定していたが、この勝報を聞いて親征を取りやめた。王海賓には左金吾衛大将軍を追贈し、その遺児には忠嗣の名を与えて朝散大夫を授けた。訥は左羽林軍大将軍・平陽郡公に復し、子の暢も朝散大夫を拝した。まもなく涼州鎮軍大総管となったが、老齢を理由に致仕を許された。開元八年、七十余歳で没し、太常卿を贈られ、諡は昭定。訥は沈勇寡黙で大敵を前にしてますます奮起する将であった。弟の楚玉は開元中に幽州大都督府長史となったが職務不適格で更迭された後に没した。