舊唐書卷九十一 列傳第四十一 崔玄暐

清廉と諫言の宰相

  • 博陵安平の人。父行謹は胡蘇令。本名は曄、字が則天の祖父の諱に触れるため玄暐と改めた。若くして学識と行いに優れ、叔父秘書監行功に重んじられた。龍朔中明経に及第、庫部員外郎に累進。母盧氏は「官についた子が貧乏だと言うのは良い知らせ、財が豊かだと言うのは悪い知らせだ、と親戚辛玄馭が語ったのを重んじる」と説き、不正な財に手を染めぬよう戒め、孟子の母が魚の贈り物を拒んだ故事を引いた。玄暐は母の教えを守り清廉謹直で知られた。天官郎中、鳳閣舎人。
  • 長安元年、天官侍郎に抜擢。請託を一切断り執政者に忌まれ文昌左丞に転じたが、月余で則天は選司の風紀が乱れたとして旧職に復させ雑采七十段を賜った。長安三年、鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事、太子左庶子を兼ねる。四年、鳳閣侍郎・銀青光禄大夫。来俊臣・周興らが良善を誣告して数百家を籍没させた冤罪を玄暐が糾し、則天は感悟して雪冤させた。
  • 則天晩年、宋璟が張昌宗の謀反を弾劾した際、玄暐もたびたび直言し則天は法司に正しく断罪させた。弟の升も司刑少卿として死刑を求めるなど兄弟ともに正義を守った。則天の病中、宰相が数か月謁見できない中、玄暐は「皇太子・相王は仁明孝友で湯薬を親しく侍せる、宮禁の事は重大、異姓を出入りさせぬよう」と奏し、則天は「その厚意を深く受け止める」と応じた。易之誅殺の功で中書令・博陵郡公。中宗が方術人鄭普思を秘書監に任じようとした際、切諫したが容れられなかった。まもなく王に進爵し実封四百戸、検校益州大都督府長史・知都督事。その後累貶され白州司馬に至る途上で病没した。建中初、太子太師を追贈された。
  • 玄暐は弟升と友愛が篤く、孤貧な子弟を自ら養い教えて称された。升は尚書左丞に至った。玄暐は若い頃詩賦を作ったが晩年は自分の長所でないとして経籍の研究と著作に専念し、『行己要範』十巻、『友義伝』十巻、『義士伝』十五巻、『文館辞林策』の訓注二十巻を撰し、いずれも世に行われた。子の璩は文学で知られ中書舎人・礼部侍郎に至り、璩の子渙には別伝がある。曾孫郢は開成三年、商州防禦判官兼殿中侍御史から監察御史。