舊唐書卷九十一 列傳第四十一 張柬之

老いて宰相となり中宗を復位させた首謀者

  • 字は孟将、襄州襄陽の人。若くして太学生となり経史、特に『三礼』を修め、国子祭酒令狐徳棻に重んじられた。進士及第、青城丞に累補。永昌元年、賢良の詔試で千余人中の第一に選ばれ監察御史に抜擢。
  • 聖暦初、鳳閣舎人。弘文館直学士王元感が「三年の喪は三十六月」と論じたのに対し、柬之は『春秋』『尚書』『礼記』『儀礼』を引いて三年の喪は二十五月(あるいは鄭玄説で二十七月)であることを詳細に考証して反論し、時人は柬之の説を礼典に合致すると評した。
  • 突厥の黙啜が娘を淮陽郡王延秀に嫁がせる和親を則天が許そうとした際、「古来天子が夷狄の女を求めて中国の王に配した例はない」と諫めて則天の意に逆らい、神功初、合州刺史、のち蜀州刺史に出された。姚州(雲南)への兵員派遣の弊害を論じる上疏では、姚州が古の哀牢国で本来交通の要衝ではなく、後漢以来の内属の経緯や、蜀漢の諸葛亮の南征と羈縻政策の巧みさを引きながら、現地の官吏の貪虐と収奪、蜀からの遠征兵の死傷、劍南の逃亡者二千余戸が現地で略奪を業としている実態を批判し、姚州を廃して巂州府に統合し瀘南諸鎮も廃止すべきと説いたが、則天には聞き入れられなかった。
  • のち荊州大都督府長史、長安中、司刑少卿・秋官侍郎。夏官尚書姚崇が宰相候補を問われた際「張柬之は沈厚で謀があり大事を断じられる、ただし高齢なので急いで用いるべき」と推挙し、則天は召見して同鳳閣鸞台平章事とした。まもなく鳳閣侍郎・知政事。易之兄弟誅殺は柬之が首謀した。中宗即位後、天官尚書・鳳閣鸞台三品・漢陽郡公・実封五百戸、まもなく中書令・監修国史。月余で漢陽郡王・特進に進むが知政事を罷免された。
  • 同年秋、病を養うため襄州への帰郷を願い出て許され襄州刺史を特に授けられ、子の漪も著作郎として同行した。中宗自ら詩を賦して見送り、群公も定鼎門外で餞別した。襄州では郷里の旧知の罪も厳しく処断し容赦せず、子の漪は父の威を借りて礼を欠く振る舞いをし、時人に荊楚の剽悍な気質が変わらないと評された。まもなく武三思の陰謀で新州司馬に貶され、憤慨のうちに卒した、年八十余。景雲元年、詔で功績を讃え中書令・漢陽郡公を追贈、建中初、司徒を重ねて追贈。玄孫璟は開成二年、宜城尉から寿安尉に遷った。