誅殺の功臣、武三思排除に失敗
- 絳州太平の人。若くして明経に及第。聖暦初、衛州刺史に累進。河北で突厥の侵寇の直後、秋の収穫期にも関わらず築城が続けられていたのを、「金城湯池も食糧なくして守れない、収穫を捨てて城郭を修めてどうする」と全て中止させ、人吏に称えられた。夏官侍郎を経て泰州刺史。大足元年、洛州長史。武則天の長安行幸に際し副留守事を委ねられ、清廉な手腕で璽書に慰労され物百段を賜った。長安三年、中台右丞・銀青光禄大夫。
- 神龍元年、右羽林将軍に転じ、張易之・昌宗誅殺の功で金紫光禄大夫・侍中・平陽郡公・実封五百戸。まもなく斉国公に進封。則天崩御の遺詔で実封は通算七百戸となった。暉らは唐室中興を理由に武氏諸王の降爵を奏し、諸武は公に降された。これに武三思は激怒し、中宗を動かして暉らを名目上郡王に進めつつ知政事を罷免させ、不死の鉄券を賜って朔望のみ朝すよう命じた。
- 易之兄弟誅殺の直後、洛州長史薛季昶が暉に「二凶は除いたが呂産・呂禄(武三思ら)はなお在る、兵勢のあるうちに武三思一族も誅して王室を正すべき」と説いたが、暉と張柬之はこれに従わず、季昶は「私は死に場所を知らない」と嘆いたという。翌日、三思は韋皇后の助けを得て密かに宮中で政を左右し国政を覆したため、天下はこれを暉らの失策として咎めた。政柄を失い三思に制されると、暉は寝所で嘆息し指を弾いて血を出すほど悔しがった。柬之は「主上(中宗)は英王であった頃勇烈で知られたので武氏を残して自ら誅するのを待つつもりだったが、もはやどうしようもない」と嘆じた。
- 三思は許州司功参軍鄭愔にかつて暉らに廃黜されていた恨みから罪状を上表させた。中宗の詔は、暉らの功は録すべきだが権を傾け国章を軽んじ王同皎と結んで謀反を企てたとし、暉を崖州司馬、柬之を新州司馬、恕己を竇州司馬、玄暐を白州司馬に貶した。暉は崖州に至って周利貞に殺された。睿宗即位後、五王の官爵を追復し、暉には秦州都督を贈り諡は肅愍とされた。建中初、太尉を重ねて追贈。
- 曾孫元膺は開成三年、試太子通事舎人から河南県丞。