舊唐書卷九十 列傳第四十 豆盧欽望

両朝の宰相

  • 京兆万年の人。曾祖通は隋の相州刺史・南陳郡公。祖の寛は隋文帝の甥にあたり、大業末梁泉令。高祖の関中平定に際し郡守蕭瑀とともに豪右を率いて京師に赴き殿中監に累進、子の懐讓は万春公主に尚した。高祖は寛の曾祖萇が北魏太和中に単姓とされていたため寛を盧氏と改姓させたが、貞観中礼部尚書・左衛大将軍・芮国公に至り永徽元年卒すると特進・并州都督を贈られ昭陵に陪葬、諡は定とされ豆盧姓に復された。父仁業は高宗時左衛将軍。
  • 欽望は則天時、司賓卿に累進。長寿二年、宗秦客に代わって内史。李昭德も内史として権勢を握っていた頃、欽望は同時期の宰相韋巨源・陸元方・蘇味道・杜景儉らとともに昭德に従順であった。証聖元年、昭德の失脚に伴い、欽望らも正論を主張できなかったとされ、司刑少卿皇甫文備の弾劾により趙州刺史に左遷(韋巨源は鄜州刺史、陸元方は綏州刺史、蘇味道は集州刺史へ同様に左遷)。同年、司礼卿に復帰し秋官尚書・芮国公。河北道宣労使を経て、廬陵王が皇太子に復すと皇太子宮尹。聖暦二年、文昌右相・同鳳閣鸞台三品、まもなく太子賓客となり知政事を停止。
  • 中宗即位後、宮僚の旧縁で尚書左僕射・知軍国重事、検校安国相王府長史・中書令・知兵部事・監修国史を兼ねた。
  • 欽望は両朝で前後十余年宰相を務めたが、張易之兄弟や武三思父子が専横し逆乱を図る中、自らの身を謹むばかりで匡正できず、これにより当時から譏りを受けた。神龍二年、開府儀同三司。景龍三年五月、致仕を願い出るも許されず、同年十一月卒、年八十余。司空・并州大都督を贈られ諡は元、東園秘器を賜り乾陵に陪葬。則天時の宰相にはほかに張光輔・史務滋・崔元綜・周允元らがあり、いずれも名績があった。

張光輔(附伝)

  • 京兆の人。若くして弁舌が明晰で吏の才があった。司農少卿・文昌右丞を経て、越王李貞の乱平定の功で鳳閣侍郎・知政事。永昌元年、納言、旬日後内史。同年、洛州司馬房嗣業・洛陽令張嗣明が徐敬業の弟敬真と密かに結んだ罪に連座。敬真は流刑地繍州から逃げ帰り突厥への内通を図ったが、道中で嗣業・嗣明が衣糧を与えて助けたことが発覚し、嗣業は獄中で自縊し、嗣明は死を逃れようと多くの知人を巻き添えにし、光輔が豫州征討時に讖緯の説を私語し日和見の態度を取っていたと誣告した。光輔はこれにより誅殺され家財は籍没された。

史務滋(附伝)

  • 宣州溧陽の人。内史に至った。天授中、雅州刺史劉行実とその弟渠州刺史行瑜・尚衣奉御行感、及び兄子左鷹揚将軍虔通が侍御史来子珣に謀反を誣告されて誅され、盱眙にあった父左監門大将軍伯英の棺柩も毀された。務滋は行感と親しく反状を握りつぶそうとしたため、則天が怒って来俊臣に取り調べさせると、務滋は連座を恐れて自殺した。

崔元綜(附伝)

  • 鄭州新鄭の人。祖君粛は武徳中黄門侍郎・鴻臚卿。天授中、秋官侍郎に累転。長寿元年、鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事。政務に勤勉で中書省では夕方まで束帯のまま休まなかった。潔癖な性格で薫辛の物を二十余年口にしなかったが、内心は苛烈で、勅命による獄の審理では必ず難癖をつけて重刑に陥れたため、人々に畏れ蔑まれた。翌年罪を得て振州に配流されると朝野は喜んだが、まもなく赦されて帰り監察御史に復した。中宗時、尚書左丞・蒲州刺史を経て老病で致仕、晩年は養生法を好み九十余歳で卒した。

周允元(附伝)

  • 豫州の人。若くして進士に及第。延載初、左粛政御史中丞に累転しまもなく鳳閣鸞台平章事。宰臣らとの侍宴で則天が書伝中の善言を述べさせた際、允元は「己が君の堯舜に及ばぬことを恥じる」と述べ、武三思がこれを指斥の言と難じたが、則天は「この言葉は戒めとするに足る、咎めるには当たらない」と退けた。証聖元年卒、貝州刺史を贈られ、則天は七言詩を自ら書いて悼み、時人はこれを栄誉とした。

史論

  • 史官は評す。王及善は孝敬皇太子の東宮にあって職務に誠実で、来俊臣が獄に下った際には力を尽くして凶悪の除去を諫め、賢良への濫刑を憂え唐室興復の志を示した心は無視できない。杜景儉は刑罰の濫用を憂い、陰陽不和の責を自らに帰したことで則天に「真の宰相」と評されたが、李昭德に柔順であったことは剛直さを欠いた過ちといえる。朱敬則は文学で称され節行に恥じるところなく、諫諍は果断で人物の選択にも精確であった、古今に通じ王霸の道を深く識る者でなければこのような高論は立てられなかったであろう、ただ宰相としての時機に恵まれなかったのは惜しい。楊再思は佞によって高位を得て身を全うしたが、不善を覆い隠しても人目を欺けるものではない。李懷遠は蔭位を借りることを潔しとせず、栄達しても故郷を誇示せず、粗末な住まいと駄馬を用い続けた、これも一つの美徳といえるが、身を挺して国事に尽くす道には至らなかった。豆盧欽望・張光輔・史務滋・崔元綜・周允元らは、それぞれに一言半句の見るべき点や小さな善はあったが、大任を担うにあたっては器を備えた臣にとどまった。

  • 賛して曰く。及善は職務に励み、智力がなかったわけではない。景儉は権を執っても賢者と評された。雄渾な文章と高い節操では朱敬則が並ぶ者なき存在であった。道を守り貧に安んじたのは李懷遠の当仁の姿である。豆盧欽望らの一片の善など取るに足りない。楊再思の諂媚は、ただ速やかに退けられるべきものであった。