舊唐書卷九十 列傳第四十 李懷遠

清簡な生涯

  • 邢州柏仁の人。早くに父を失い貧しい中で学問を好み文章に長じた。宗族の者が高位の蔭位を貸そうとしたのを拒み「人の勢いに頼るのは高士のすることではない、蔭位を借りて官を求めるのは本意ではない」と語った。まもなく四科挙に及第し司礼少卿に累進。邢州刺史に出ることになったが本籍地であるため固辞し冀州刺史に改められた。揚・益等州大都督府長史を経て赴任前に同州刺史。清簡な官として称された。太子左庶子・太子賓客、右散騎常侍・春官侍郎を歴任。大足年、鸞台侍郎、まもなく同鳳閣鸞台平章事。銀青光禄大夫・秋官尚書・検校太子左庶子・平郷県男。長安四年、老いを理由に秋官尚書を辞して太子左庶子に専任、まもなく太子賓客。神龍初、左散騎常侍・兵部尚書・同中書門下三品、金紫光禄大夫・趙郡公・実封三百戸。病により致仕を願い許された。中宗の京師行幸に際し本官のまま東都留守を命じられた。
  • 長く栄位にあったが質素を旨とし、園林邸宅も改築しなかった。常に鈍い馬に乗っていたところ、左僕射豆盧欽望に「これほどの栄貴で駿馬を買わないのか」と問われ「この馬は驚いて躓かないから足りている」と答え、聞く者は皆その謙虚さを称えた。神龍二年八月卒。中宗は錦の被を賜って葬らせ輟朝一日、自ら祭文を作り侍中を贈り諡は成とした。子は景伯。

李景伯(懷遠子、附伝)

  • 景龍中、給事中を経て諫議大夫。中宗が侍臣・朝集使を集めた宴で酒を酌み交わし『回波辞』を各自作らせた際、皆が阿諛の言葉や栄位を求める言葉を詠む中、景伯は「回波の折の盃、微臣の職は箴規にあり、既に三爵を過ごした侍宴、これ以上の喧嘩は儀に非ずと恐れる」と詠んだ。中宗は不興であったが、中書令蕭至忠は「これこそ真の諫官だ」と称えた。景雲中、右散騎常侍に累進、まもなく老病により致仕、開元中に卒した。子は彭年。

李彭年(景伯子、附伝)

  • 吏才があり事の処理に長け時に称された。開元中、考功員外郎・知挙、中書舎人・給事中・兵部侍郎を歴任。天宝初、吏部侍郎となり右相李林甫と親しく、山東の名門と婚姻を結び清官に引き上げ家門を大きくした。銓衡を七年務めたが贓罪で御史中丞宋渾に弾劾され嶺南臨賀郡へ長流。数か月後、宋渾及び第の恕も贓罪で獄に下り、渾は嶺南高要郡へ、恕は南康郡へ流された。天宝十二載、彭年は済陰太守に起用され馮翊太守を経て中書舎人・給事中・吏部侍郎。天宝十五載、玄宗の蜀行幸に際し西京が賊に陥り彭年は賊中に留まり脅されて偽官を授かった。憂憤のうちに志を得ず、韋斌と相次いで卒した。両京回復後、優詔で礼部尚書を追贈された。