舊唐書卷九十一 裴炎・劉禕之・魏玄同・李昭德
裴炎・劉禕之・魏玄同・李昭德の四名の合伝。いずれも高宗末から則天臨朝期にかけて権力の中枢にありながら、最終的に則天の猜疑や酷吏の讒言により非業の死を遂げた。裴炎は中宗廃立を主導しながら後に返政を進言して誅殺され、劉禕之・魏玄同も則天への不満を漏らしたことで賜死、李昭德は武承嗣の専権を阻止する功がありながら専断を咎められ誅殺された。
年表(20件)
- 高宗崩御後中書令として太子哲(中宗)を即位させたが韋玄貞問題で廃立を決意した
- 廃立断行時劉禕之らと兵を率い中宗を連れ出し廬陵王に降し豫王旦を立てた
- 永淳元年682年高宗東都行幸に伴い太子哲の輔佐に留められた
- 天授初武承嗣の武氏七廟建立要求に「呂氏の失敗を見よ」と諫めた
- 韓王元嘉ら誅殺論議時独り誅殺に反対し武承嗣の恨みを買った
- 光宅元年10月崔察の讒言で下獄し都亭駅前で処刑された
- 文明元年684年内史となり徐敬業の乱に対し太后の返政を進言した
- 貞観元年627年召命を母の老齢を理由に辞退し孝養を全うした
- 上元中元万頃らと『列女伝』等を撰し「北門学士」と称された
- 則天臨朝後豫王擁立に参与し中書侍郎・同中書門下三品となった
- 儀鳳2年677年中書侍郎兼豫王府司馬となる
- 房先敏の処分時責任を自ら引き受け則天に称えられ太中大夫を賜った
- 同年家で賜死させられた、57歳
- 垂拱3年687年収賄と私通を誣告され勅の正統性を拒み則天の怒りを買った
- 武承嗣を文昌左相にした際姑侄の帝位争いの危険を密奏し思いとどまらせた
- 延載初武承嗣立太子を扇動した王慶之を杖殺し運動を鎮めた
- 長寿2年693年夏官侍郎、同年鳳閣鸞台平章事・検校内史となった
- 酷吏専横期来俊臣・侯思止の悪行を廷議で暴き侯思止を杖殺させた
- 延載初専権を丘愔らに批判され欽州南賓尉に左遷、のち流罪となった
- 召還後来俊臣に謀反を誣告され同日処刑された
裴炎――弘文生から宰相へ
- 裴炎は絳州聞喜の人。弘文生として休暇中も学業を怠らず、推挙の話があっても学未熟を理由に辞退するほど謙虚で、10年近く館に留まり『春秋左氏伝』『漢書』に精通した。明経挙に及第し濮州司倉参軍から兵部侍郎・中書門下平章事・侍中・中書令を歴任した。
裴炎――高宗崩御と則天による廃立
- 永淳元年(682年)高宗東都行幸に伴い太子哲(中宗)の輔佐に留められ、翌年高宗不予の際は太子に随行して侍疾。12月、高宗崩御、太子即位。政務未着手のうちは天后が令を門下に下す形が取られた。
- 中宗が皇后の父韋玄貞を侍中にしようとした際、炎が強く諫めると中宗は不満を漏らし「国さえ譲れるのに侍中の地位を惜しむのか」と語った。これに恐れた炎は則天と結んで廃立を決意。劉禕之・程務挺・張虔勗らと共に兵を率いて宮中に入り、太后の令を宣して中宗を殿から連れ出した。中宗が「私に何の罪があるか」と問うと太后は「天下を韋玄貞に与えようとしたことが罪だ」と答え、中宗は廬陵王に降ろされ豫王旦が帝位に就いた。炎は定策の功で河東県侯に封じられた。
裴炎――武氏専権への諫言
- 天授初、豫王が皇嗣に降格される中、武承嗣が武氏七廟の建立と祖先追封を求めると、炎は「太后は至公を存すべきで、私に祖廟を建てるべきでない。呂氏の失敗を見よ」と諫めた。太后は「呂氏の王封は生前の権力によるもの、追尊は前代の事、両者は同列に論じられない」と反論したが、炎は「蔓草は放置すれば取り返しがつかなくなる」となお主張し、太后は不満ながらも取りやめた。
- 韓王元嘉・魯王霊夔ら皇族に対し武承嗣・三思が誅殺を勧める中、劉禕之・韋仁約は沈黙する一方、炎だけが独り反対を貫き、承嗣の深い恨みを買った。
裴炎――政変の疑いと処刑
- 文明元年(684年)官名改易で内史となる。秋、徐敬業の反乱に対し太后が炎に対策を諮ると、炎は「皇帝が親政できていないことが乱の原因、太后が政を返せば乱は自ずと解ける」と答えた。これを聞いた御史崔察が「大権を握る炎が太后に返政を求めるのは怪しい」と上言し、太后は御史大夫騫味道・魚承曄に取調べを命じた。
- 鳳閣侍郎胡元範や右衛大将軍程務挺らが炎の忠誠を弁護したが、太后は聞き入れず、光宅元年10月、都亭駅前の街で処刑された。炎は「宰相たる者が獄に下れば全うできる理はない」と述べ節を曲げなかった。家財を没収されたが蓄えは何もなかった。胡元範は救援のため瓊州に流され没し、程務挺は伏誅、納言劉斉賢は吉州長史、吏部侍郎郭待挙は岳州刺史に左遷された。
裴炎――伏念処刑をめぐる評
- 先立つ開耀元年(681年)10月、裴行儼の突厥討伐で降伏を許された阿史那伏念であったが、炎はその功を程務挺・張虔勗の圧迫による降伏に過ぎないと奏し、伏念と温傅ら54人は都市で斬られた。行儼は「渾・浚の故事に等しい恥辱、今後は誰も降らなくなる」と嘆き病と称して出仕しなくなった。史臣は、炎が国家の信義に背いて降者を殺し功を妬んだことが、後の陰謀の伏線となり自らの敗死を招いたと評した。
裴炎――追贈と子孫
- 睿宗即位の制で「望重国華、才は人秀」と称え、文明の変事における功を挙げて益州大都督を追贈された。長子の彦先は太子舎人、甥の伷先は工部尚書に至った。
劉禕之――出自と学識
- 劉禕之は常州晋陵の人。祖の興宗は陳の鄱陽王諮議参軍、父の子翼は学識に富んだ。禕之は非を容れない性格で友人を面と向かって咎めたが、友人李伯薬は「劉四(禕之)は罵っても人に恨まれない」と評した。
- 貞観元年(627年)京に召されるが母の老齢を理由に辞退し、太宗はこれを許し孝養を全うさせた。李襲誉に至孝を称えられ、居所を「孝慈里」と改称された。母の喪明けに吳王府功曹、著作郎・弘文館直学士、『晋書』編纂に加わり朝散大夫を加えられた。永徽初、没し高宗が使者を遣わして弔い霊柩を郷里に送らせた。文集20巻あり。
劉禕之――北門学士としての活躍
- 若くして孟利貞・高智周・郭正一とともに「劉・孟・高・郭」と文藻で称された。上元中、左史・弘文館直学士として元万頃・范履冰・苗楚客らと『列女伝』『臣軌』『百僚新誡』『楽書』など計千余巻を撰し、密かに政務にも参与したため「北門学士」と称され宰相の権を分かつほどであった。兄の懿之も給事中を務め、兄弟が両省に並んだことは評判となった。
劉禕之――則天の信任と栄達
- 儀鳳2年(677年)中書侍郎兼豫王府司馬。姉が宮中に仕えていた縁で天后(則天)の母栄国夫人の見舞いに関わり左遷され巂州に流されたが、天后の願いで高宗に召還され中書舎人に復した。相王府司馬、検校中書侍郎を経て、高宗から「相王は朕の愛子、卿の忠孝の家風に薫陶されよ」と期待された。
- 家では孝友を尽くし俸禄を親族に分け与え士族に称された。則天臨朝後は重用され、豫王擁立の謀に参与し中書侍郎・同中書門下三品・臨淮男。詔勅の起草を一手に引き受け即座に文を成した。官名改易後は鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台三品。
劉禕之――過を君に譲る美徳
- 司門員外郎房先敏が処分に不満を訴えた際、内史騫味道は「これは太后の裁定」と責任を天后に帰したが、禕之は「連座の改官は臣下の奏請による」と自らに引き受けた。則天は味道の保身を貶め青州刺史に左遷する一方、禕之の姿勢を称え太中大夫・物百段・馬一匹を賜った。則天は「君臣は一体であり、股肱の疾を腹背に移すようなことがあってはならぬ」と述べ、王徳真は先朝の戴至徳の同様の美徳を引き合いに出した。
劉禕之――吐蕃対策の献策
- 儀鳳中、吐蕃対策を高宗が諮った際、禕之は「吐蕃は禽獣に等しく、その地を得ても住むに値せず、辱めを受けても恥とするに足りない。万乗の威を控え民の労役を軽くすべき」と述べ、高宗に嘉された。
劉禕之――則天への諫言と賜死
- のち禕之は鳳閣舎人賈大隠に「太后は既に廃昏立明を成したのに、なぜ臨朝称制を続けるのか。政を返して天下を安んずるべき」と漏らしたが、大隠がこれを密奏。則天は「私が引き立てた者に背かれた」と不快感を露わにした。
- 垂拱3年(687年)帰州都督孫万栄からの収賄と許敬宗の妾との私通を誣告され、粛州刺史王本立が糾問に赴くと、禕之は「鳳閣鸞台を経ない勅がどうして勅と言えるか」と拒んだ。これを制使への抗命とみなした則天は激怒し、家で賜死させた、57歳。
- 睿宗が獄中の禕之のため抗疏したが、禕之自身は「太后の独断のもとでは皇帝の上表もかえって禍を早めるだけ」と死を覚悟していた。臨終、沐浴して神色自若のまま謝表を自ら執筆、その文は情理を尽くし見る者を悲しませた。麟台郎郭翰・太子文学周思鈞がこれを称賛したことに則天は不快を示し二人を左遷した。睿宗即位後、宮府旧僚として中書令を追贈され、文集70巻が伝わった。
魏玄同――出自と吏部での上疏
- 魏玄同は定州鼓城の人。進士挙、司列大夫を経て上官儀との文章交流に連座し嶺外に配流され、上元初赦免。工部尚書劉審礼の推薦で岐州長史、吏部侍郎に至った。
- 選挙を担当するにあたり、人材登用の方法に問題があると上疏した。要旨は次の通り:国を治めるには賢を求めねばならず、任官の道が尽くされていないことが世の乱れの原因である。周礼では諸侯・地方官が自ら属吏を選び、王朝は大臣のみを命じる分業制度であったが、秦漢以降その分権が失われ、魏晋以来吏部への一元集中が進み、その弊害は久しい。天下の広さ士人の多さを少数の官が銓衡することの限界、賄賂や情実による選任の横行、貴族子弟の若年任官の弊害を指摘し、周・漢の制度に倣って選挙を吏部から分掌させるべきと説いた。
魏玄同――結交と非業の死
- 上疏は容れられなかったが、弘道初、文昌左丞兼地官尚書・同中書門下三品に転じ、則天臨朝後は太中大夫・鸞台侍郎として引き続き政事に参与、垂拱3年(687年)銀青光禄大夫・検校納言・鉅鹿男。
- 裴炎と生涯の交わりを保ったことから「耐久朋」と呼ばれたが、酷吏周興とは不仲であった。永昌初、周興の讒言で「太后は老いた、皇嗣を復すべきと言った」との罪を着せられ、家で賜死を命じられた。監察御史房済が「告事すれば召見の機会が得られる」と勧めたが、玄同は「人が殺すのも鬼が殺すのも同じこと、人を告発してまで生きたくはない」と拒み、73歳で刑死した。子の恬は開元中潁王傅となった。
李昭德――父李乾祐の剛直
- 李昭德は京兆長安の人。父の乾祐は貞観初、殿中侍御史として鄃令裴仁軌の私役門夫を太宗が死刑にしようとした際、「法は陛下と天下が共有するもの、罪と刑の均衡を欠く判決はできない」と諫め、これを撤回させた。母の喪に廬を結び自ら土を運んで墳を築き、太宗から旌表を受けた。
- 長安令・治書御史を経て御史大夫に至るが、中書令褚遂良と不仲となり讒言され邢州・魏州刺史に左遷。強直な一方で小人と結んで朝廷の情報を伝えたことが発覚し愛州に流された。乾封中、桂州都督、司刑太常伯。京兆功曹参軍崔擢の推挙に絡む秘密漏洩を後に崔擢自身に告発され再び免官、まもなく没した。
李昭德――武承嗣の野心への諫止
- 昭德は乾祐の庶子、強幹で父の風を継いだ。明経挙で鳳閣侍郎に至り、長寿2年(693年)夏官侍郎、同年鳳閣鸞台平章事、検校内史。神都の文昌台造営や城郭整備を主導し能吏とされた。天津橋近くの洛水にかかる橋の設計を工夫し、以後の水害による損傷をなくした。
- 則天が甥の武承嗣を文昌左相にした際、昭德は「承嗣は陛下の甥かつ親王、機権に置くべきでない。姑侄の間でも帝位争奪は起こりうる」と密奏し、則天は「思い至らなかった」と改めさせ承嗣を太子少保に転じさせた。延載初、鳳閣舎人張嘉福が扇動した武承嗣立太子の請願運動に対し、昭德は首謀者の王慶之を杖殺して鎮め、「姑のために廟を立てる甥がどこにいるか、皇位は陛下の子孫に伝えるべき」と改めて諫め、承嗣擁立の動きを止めさせた。
李昭德――酷吏排斥と専権批判
- 諂諛の風が横行する中、洛水で赤い斑点のある白石を「赤心の石」と称して献上した者を昭德は「洛水の他の石はみな逆心なのか」と一喝し人々を笑わせた。来俊臣・侯思止らの酷吏が忠良を陥れる中、昭德は廷議でその実態を暴き続け、来俊臣が妻を捨てて名家の娘を娶ろうとした事件も「国を辱める」と一蹴し、侯思止を後に杖殺した。
- こうした専権に対し、前魯王府功曹参軍丘愔は上疏で昭德の専断を厳しく批判した。魏冉の故事を引き、権臣の専擅が国の禍となる危険を説き、昭德が奏事の可否を左右し官界に自派を広げていることを指摘、早期に権力を抑制すべきと諫めた。長上果毅鄧注も『碩論』数千言で同様の批判を著し、鳳閣舎人逢弘敏がこれを奏上した。
李昭德――失脚と誅殺
- 則天は昭德を疎んじ「内史としての殊栄に見合わぬ振る舞い」と評し、延載初、欽州南賓尉に左遷、まもなく死罪を免じ流罪とした。のち召還され監察御史に復すが、かねて不仲だった太僕少卿来俊臣に謀反を誣告され下獄、来俊臣と同日に処刑された。処刑の日は大雨となり、人々は「今日の雨は昭德を悼み俊臣を慶ぶ、一悲一喜だ」と語り合った。
- 神龍中、制詔で「強直自達、朝廷で剛を吐かず柔に阿らず」と評され左御史大夫を追贈、徳宗建中3年(782年)司空を追贈された。
史論
- 史臣は評す。裴炎は宰相の位にありながら、高宗崩御の直後は中宗の過失にのみ注意し、太后の野心を見抜けなかった浅慮の人であった。承嗣の祖廟建立や三思の宗室誅殺の企てに対し諫章を発したのみで実効を挙げられず、伏念の降を裏切り妬みで功を握りつぶしたことも、自らの誅殺を招く伏線であった。
- 劉禕之は名家の子として学識と実務に優れ相権を担ったが、賈大隠に太后への不満を漏らし、孫万栄からの収賄や許敬宗妾との私通の疑いを招いたことで清名を汚した。誣告の弊を憂うる一方で自らも防が甘かったのは自業自得と言うべきだが、死に臨んで節を屈しなかったことは徒労とはいえ評価できる。
- 魏玄同は文才に富み選挙の要諦を上疏したが、高宗末から則天期にかけて中興を望む唐の旧臣と則天に阿る酷吏との対立の中、皇嗣復位を望んだことで死を免れなかった。無実の死であり惜しむべきである。
- 李昭德は強幹で機知に富み、武承嗣の立太子の陰謀を二度阻止し、侯思止・王慶之を除き来俊臣の勢いを挫くなど公忠の実があった。しかし専権を恃み謙譲を欠いたため丘愔・鄧注の弾劾を招き、自ら瓦解を早めた。誅されたのも自業自得というほかない。
讚曰:政に刑法なく、時は艱危であった。裴炎の智は浅く遅かった。劉禕之の行いは、色に自ら欺かれた。李昭德の強猛さも、なぜ完全を欠いたのか。死しても誉れを得ず、それも当然というべきだろう。魏玄同の不幸も、また同様の顛末であった。