舊唐書卷九十 高宗中宗諸子
高宗の8子と中宗の4子、計12人の皇子の伝。多くが則天武后の専権のもとで廃立・誣告・粛清の犠牲となり非業の死を遂げた。章懐太子賢は聡明さで知られながら讒言により廃太子となり自殺を強要され、他の皇子たちも流罪・誅殺・幽閉など不遇の生涯を送った経緯が記される。
高宗の八人の子
- 則天順聖皇后は中宗・睿宗・孝敬皇帝弘・章懐太子賢を生み、後宮の劉氏は燕王忠、鄭氏は原王孝、楊氏は澤王上金、蕭淑妃は許王素節を生んだ。
燕王忠――出生と立太子
- 燕王忠、字は正本、高宗の長子。高宗が東宮に入って間もなく生まれ、太宗は宮僚を集めた宴で「初めて孫を得た喜び」を語り、酔って自ら舞い群臣にも舞わせた。
- 貞観20年(646年)陳王に封じられる。永徽元年(650年)雍州牧。王皇后に子がなかったため、伯父の中書令柳奭が忠を太子に立てるよう画策し、褚遂良・長孫無忌らも賛同、高宗は永徽3年(652年)忠を皇太子に立て大赦を行った。6年(655年)元服。
- 同年、王皇后が廃され武昭儀の子の弘が生まれると、礼部尚書許敬宗が忠の廃立を上疏し、高宗はこれに従い忠は梁王に降格、梁州都督となり実封2000戸を賜った。まもなく房州刺史に転じた。
燕王忠――廃庶人と死
- 忠は成長するにつれ不安に苛まれ、婦人の服を着て刺客に備えるなど異常な行動を見せた。顕慶5年(660年)廃されて庶人となり黔州に流され、廃太子承乾の旧宅に幽閉された。麟徳元年(664年)上官儀・王伏勝との謀反を誣告され流所で賜死、22歳、子はなかった。翌年、皇太子弘の願いで改葬が許された。神龍初、燕王を追封され太尉・揚州大都督を贈られた。
原王孝
- 原王孝は高宗の第2子。永徽元年許王、3年并州都督、顕慶3年(658年)遂州刺史。麟徳元年(664年)薨じ益州大都督・諡悼を贈られる。神龍初、原王・司徒・益州大都督を追贈された。
澤王上金――則天の嫌忌と自死
- 澤王上金は高宗の第3子。永徽元年杞王、3年遙授益州大都督、乾封元年(666年)壽州刺史となるが罪により免官・削封され澧州に安置された。則天に憎まれ、罪を捏造されての処分だったという。
- 永隆2年(681年)則天が姉妹の義陽・宣城二公主の減刑を装って上金・素節に官職を授けさせ沔州・岳州刺史とし朝集からは外した。嗣聖元年(684年)赦免され、文明元年、上金は畢王、後に澤王・蘇州刺史に改封された。垂拱元年(685年)陳州刺史。永昌元年(689年)太子左衛率、隨州刺史。
- 載初元年(690年)武承嗣が酷吏周興に上金・素節の謀反を誣告させ、都に召還。舒州刺史素節は都城南の駅で殺され、上金は恐れて自縊した。子の義珍・義玫・義璋・義環・義瑾・義遂の7人も顕州に流され死んだ。神龍初、上金の官爵は復され、庶子の義珣が嗣沢王に封じられた。
澤王上金――子孫の襲爵をめぐる混乱
- 義珣は嶺外に隠れ僕役に紛れて過ごしたが、紹封後に「上金の子ではない」と誣告され再び流された。開元初、素節の子璆が嗣沢王として上金の後を継いだが、開元12年(724年)玉真公主が義珣こそ真の遺胤であると上奏、これに対し嗣許王瓘兄弟が封爵を利するため廃立を謀ったことが露見、璆の王爵は削られ義珣が改めて嗣沢王・率更令となった。以後、中興後に本宗以外から嗣王を継いだ者は本宗に戻され爵邑を削られる慣例となった。
許王素節――蕭淑妃の子としての受難
- 許王素節は高宗の第4子。6歳で永徽2年(651年)雍王、雍州牧。詩賦の暗誦に優れ高宗に愛されたが、母の蕭淑妃が則天との寵愛争いに敗れ幽閉の末殺されると、素節も讒言に晒され申州刺史に出された。
- 乾封初、疾病を理由に入朝を禁じられたが実際には病はなく、素節は『忠孝論』を著して心情を訴えた。張柬之がこれを密かに則天に進上すると、逆に不興を買い、贓賄の罪を着せられ鄱陽郡王に降封、袁州に安置された。儀鳳2年(677年)禁錮終身、岳州に移され、永隆元年(680年)岳州刺史、後に葛王。則天称制後、許王に進封され舒州刺史を歴任。
- 天授中(690年頃)上金とともに誣告され都に召還される途上、喪に泣く者を見て「病死できるならまだましだ、何を泣くことがあるか」と語ったという。都城南の龍門駅で縊死させられ43歳、庶人の礼で葬られた。中宗即位後、許王を追封され開府儀同三司・許州刺史を贈られ、礼を改めて乾陵に陪葬された。
許王素節――子孫
- 素節が殺された際、子の瑛・琬・璣・瑒ら9人も則天に殺され、幼かった琳・瓘・璆・欽古のみ雷州に禁錮された。神龍初、瓘が嗣許王。開元初、琳は嗣越王(越王貞の後嗣)、璆は嗣沢王(伯父澤王上金の後嗣)。琳は右監門将軍で没した。
- 瓘は開元11年(723年)衛尉卿となるが、上金の男系を差し置いて璆に継がせたことへの反発で鄂州別駕に左遷、外継が絶たれ義珣が嗣沢王に、他の諸王も改封された。瓘は邠州刺史・秘書監・守太子詹事に至った。璆は温厚謹直で朝廷に重んじられ、天宝6載(747年)没し蜀郡大都督を贈られた。瓘は晩年に子を得ず、璆の子益を嗣とし、益の後は解・需が幼くして継ぎ、天宝11載(752年)益が許王を襲爵、14載(755年)解が楊銛の女を娶り許王を襲爵した。
- 璆はもと嗣沢王であったが降格され郢国公・宗正卿同正員となり、のち褒信郡王。『龍池皇徳頌』を進上し宗正卿・光禄卿・殿中監、天宝初金紫光禄大夫に至った。人材登用に長け宗室の推挙に貢献し、天宝9載(750年)没し江陵大都督を贈られた。
孝敬皇帝弘――皇太子としての徳行
- 孝敬皇帝弘は高宗の第5子。永徽4年(653年)代王、顕慶元年(656年)皇太子に立てられ大赦改元。師の郭瑜から『春秋左氏伝』を学んだ際、楚の商臣の弑逆の記事に「臣子として聞くに忍びない」と巻を閉じ、瑜に礼をもって称賛され、以後は『礼記』を読むよう改めた。
- 竜朔元年(661年)許敬宗・許圉師・上官儀・楊思倹らに命じ古今の詩文を集成させ『瑤山玉彩』500巻を編纂。総章元年(668年)孔子廟にて顔回・曾参への太子少師・少保追贈を願い出て許可された。
孝敬皇帝弘――逃亡兵処罰緩和の上表と早世
- 遼東遠征の逃亡兵とその家族の処罰が過酷であることを憂い、事情による逃亡には配慮すべきと上表し、高宗はこれに従った。
- 咸亨2年(671年)高宗東都行幸に伴い京師で監国、旱害に際し兵士の食糧不足を知り米を配らせた。戴至徳・張文瓘・蕭徳昭が輔弼を務め、太子は病がちで政務の多くは彼らが決した。母の罪により幽閉された義陽・宣城二公主を見て憐れみ、出嫁させるよう奏請、同州の土地を貧民に貸すことも奏請しいずれも許された。
- 右衛将軍裴居道の女を妃に迎える際、白雁を贄とする吉例が偶然重なり高宗を喜ばせた。上元2年(675年)合璧宮への行幸に従い病没、24歳。高宗は「孝敬皇帝」の諡を贈り、緱氏県景山の恭陵に天子の礼に準じて葬った。造営には巨費を要し民の負担が大きく、不満から瓦礫を投げて散じる者もあったという。
- 太子に子はなく、中宗即位後、楚王(睿宗の子)が後嗣とされ、廟号「義宗」を追贈、妃裴氏も哀皇后とされたが、景雲元年(710年)姚元之・宋璟の上奏により『春秋』の義に基づき義宗の号は不適切とされ、東都に別廟を建てて祔祭とすることになった。開元6年(718年)義宗の号は停止され本諡「孝敬」に統一された。
孝敬皇帝弘――附 裴居道
- 裴居道は絳州聞喜の人、隋の兵部侍郎裴鏡民の孫。父熙載は貞観中尚書左丞。女が太子妃となった縁で則天時に納言・内史・太子少保を歴任し翼国公に封じられたが、載初元年(690年)酷吏に陥れられ獄死した。
章懷太子賢――俊敏な太子時代
- 章懐太子賢、字は明允、高宗の第6子。永徽6年(655年)潞王、顕慶元年岐州刺史、雍州牧・幽州都督を兼ねる。幼くして『尚書』『礼記』『論語』を暗誦し、高宗に「賢賢易色」の句を繰り返し誦む姿を見て天性の聡明さを称された。
- 竜朔元年(661年)沛王、揚州都督兼左武衛大将軍。麟徳2年(665年)右衛大将軍。咸亨3年(672年)名を徳と改め雍王、涼州大都督。上元元年(674年)旧名の賢に復した。
章懐太子賢――立太子と『後漢書』注釈
- 上元2年(675年)孝敬皇帝弘の薨去に伴い皇太子に立てられ監国。儀鳳元年(676年)政務への精励を賞する手勅を賜った。張大安・劉訥言らと范曄『後漢書』の注釈を編纂し進献、賜物3万段。
章懷太子賢――廃太子と非業の死
- 明崇儼が「英王(後の中宗)の相は太宗に似る」と密告し、宮中で「賢は韓国夫人の子」との噂が流れ、賢自身も疑懼した。則天が『少陽政範』『孝子伝』を賜り書面で戒めるほど関係は悪化した。
- 調露2年(680年)明崇儼が暗殺されると則天は賢の関与を疑い、東宮の馬房から皂甲数百領が発見され庶人に廃されて幽閉された。永淳2年(683年)巴州に遷される。文明元年(684年)則天臨朝後、左金吾将軍丘神勣が巴州の賢の邸を検校の名目で訪れ自殺を強要、32歳で死んだ。則天は表向き哀悼の意を示し丘神勣を左遷しつつ、賢を雍王に追封。神龍初、司徒を追贈され乾陵に陪葬。睿宗即位後、皇太子・諡章懐を追贈された。3子、光順・守礼・守義があった。
章懷太子賢――子光順・守義
- 光順は天授中安楽郡王に封じられるがまもなく誅殺された。守義は文明年間犍為郡王、垂拱4年(688年)永安郡王に改封され病没した。
章懷太子賢――子邠王守禮
- 守礼は本名光仁、垂拱初に改名。太子洗馬・嗣雍王を経て、中宗が房陵に流された時期は睿宗の子らとともに10余年宮中に幽閉された。聖曆元年(698年)睿宗が皇嗣から相王に戻され外邸を許されると、諸子とともに外に居を移した。
- 神龍元年(705年)中宗即位後、光禄卿同正員、遺詔で邠王に進封され実封500戸。景雲2年(711年)幽州刺史・左金吾衛大将軍・単于大都護遙領。先天2年(713年)司空。開元初、虢・隴・襄・晋・滑6州刺史を歴任するが、実務は佐吏に委ね自らは狩猟・伎楽・遊興にふけった。開元9年(721年)以後、諸王は京師に召還された。
- 守礼は外枝ゆえの才識の乏しさで岐王・薛王らに及ばず、男女60余人の子女を持ちながらも高歌擊鼓の日々を送った。数千貫の借金を抱え、諫める者に「天子の兄が葬られないことがあろうか」と豪語し諸王の笑いの種となった。一方で天候を的中させる噂が立ったが、守礼は「章懐太子の廃立で幽閉中に度々杖を受けた古傷が、雨の前は疼き晴れると軽くなるだけで術ではない」と涙ながらに語り、玄宗も哀れんだ。開元29年(741年)70余歳で薨じ太尉を贈られた。
章懷太子賢――孫承宏・承寧・承寀
- 子の承宏は開元初広武郡王、秘書員外監、宗正卿同正員。広徳元年(763年)吐蕃が長安を侵し高宗が陝州に避難した際、吐蕃・吐谷渾軍が入城し吐蕃宰相馬重英が承宏を帝に擁立、百官を任じたが、旬余で賊が退き郭子儀が入城、承宏は行在に送られたが咎められず虢州に留められ、まもなく死んだ。承寧は天宝初率更令同正員・嗣邠王。承寀は至徳2載(757年)煌郡王・開府儀同三司、僕固懐恩の回紇との和親に伴い回紇の女を毗伽公主として迎え、乾元元年(758年)没し司空を贈られた。
- 唐制では嗣郡王は四品階に留められるが、開元中張九齢の奏により邠王守礼の子らも紫衣を許されるなど特別な待遇を受けた。
中宗の四人の子
- 中宗の4子:韋庶人(韋后)の生んだ懿徳太子重潤、後宮の生んだ庶人重福・節湣太子重俊・殤帝重茂。
懿德太子重潤――皇太孫から非業の死
- 懿徳太子重潤、中宗の長子、本名重照(則天の諱を避け改名)。開耀2年(682年)中宗が皇太子であった時に東宮で生まれ、高宗の喜びで大赦・改元(永淳)が行われた。皇太孫に立てられ府署を置かれたが、中宗の房州遷谪により廃された。
- 聖曆初、中宗が皇太子に復すと邵王に封じられた。大足元年(701年)妹の永泰郡主やその夫魏王武延基とともに、張易之兄弟の宮中出入りを批判したことが密告され、則天の命で杖殺された、19歳。中宗即位後、皇太子・諡懿徳を追贈され乾陵に陪葬、国子監丞裴粋の亡女との冥婚が行われ合葬された。永泰郡主も公主に追贈され、墓は陵と称された。
庶人重福――謀反未遂と死
- 重福は中宗の第2子。初め唐昌王、聖曆3年(700年)平恩王、長安4年(704年)譙王、国子祭酒・左散騎常侍。神龍初、韋庶人に重潤の死の陰謀への関与を讒言され濮州員外刺史に左遷、均州に移され監視下に置かれた。景龍3年(709年)中宗の南郊親祭の大赦にも重福だけは対象外とされ、上表して赦免を訴えたが聞き入れられなかった。
- 韋庶人臨朝後は監視が強化されたが、韋氏誅滅後、睿宗即位で集州刺史に転じるはずが、洛陽人張霊均に「大王は嫡長にあたる」と皇位継承を唆され、鄭愔とも結び反乱を企図、洛陽に潜入して屯営の兵を扇動したが、侍御史李邕の防備や崔日知の摘発で計画は破綻。門を焼くも敗れ、逃亡先で漕河に身を投げて自殺、31歳。屍は3日間さらされた。
- 睿宗の詔では「幼くして凶頑、成人しては陰険であった」と厳しく批判しつつも、「猶子の情」から三品の礼で葬ることが許された。
節湣太子重俊――韋后一党への反乱と死
- 節湣太子重俊は中宗の第3子。聖曆元年(698年)義興郡王、長安中衛尉員外少卿、神龍初衛王・洛州牧、神龍2年(706年)皇太子。賢い師傅に恵まれず、賓客に任じられた楊敫・武崇訓は蹴鞠などの遊興に興じるばかりで補導しなかったが、姚珽・平貞慎の諫言は容れていた。
- 武三思が中宮に取り入り重俊を憎み、子の武崇訓とその妻安楽公主が重俊を「奴」と呼んで侮辱し、公主の廃太子・皇太女構想への忿懣が募った。景龍3年(709年)7月、李多祚ら羽林軍を率い武三思・武崇訓とその一党を殺害、韋庶人・安楽公主・上官婉児を追って玄武門に迫るが、中宗自ら千騎に説得を呼びかけると兵は寝返り李多祚らは討たれた。重俊は逃走の末、山中で従者に殺され、首は宗廟に献じられ武三思・崇訓の霊前に供された。
- 睿宗即位後、重俊の忠孝の情と讒言による窮迫を憐れみ皇太子を追贈、諡節湣、定陵に陪葬。永和丞甯嘉勗が重俊の首を服で包み号泣したことが義とされたが、宗楚客の怒りを買い左遷された。睿宗即位後、甯嘉勗にも永和県令が追贈された。子の宗暉は天宝中衛尉員外卿となるが、王鉷の反乱に連座し左遷、至徳元年(756年)鴻臚卿に復した。
殤皇帝重茂――即位と譲位
- 殤皇帝重茂は中宗の第4子。聖曆3年(700年)北海王、神龍初温王・右衛大将軍。景竜4年(710年)中宗が崩じると韋庶人が重茂を帝位に立て自ら臨朝称制したが、韋氏誅滅後、重茂は叔父の相王(睿宗)に位を譲り退いた。景雲2年(711年)襄王に改封され集州に遷され、開元2年(714年)房州刺史、まもなく17歳で没し諡殤皇帝、武功西原に葬られた。
史論
- 史臣は評す。歴代、寵妃・庶子の禍で国を破った例は多いが、高宗・中宗の場合ほど甚だしいものはない。高宗の8子のうち2王は早世し、4人が武后に殺された。章懐太子は母子の情と聡明さがあっても虎口を逃れられず、まして異腹の燕王・澤王・素節はなおさらであった。中宗の代では后(韋氏)の驕り、妻(安楽公主)の傲慢、女(安楽公主)の暴虐が重なり、危うい状況を天が滌蕩したにすぎず、重茂にはそれを支える力もなかった。
讚曰:父子の天性も、寵愛によって正義が損なわれる。太子申生や宜臼と同じく、これらの太子も不遇であった。唐代の王子のうち、章懐がもっとも仁であった。凶暴な母は明智を恐れ、自らの快楽のみを求めた。