舊唐書卷八十九 列傳第三十九 姚璹

符瑞への通暁と時政記の創始

  • 字は令璋、散騎常侍姚思廉の孫。幼くして父を失い、弟妹を友愛をもって養った。博学で弁舌に優れ、永徽中明経に及第。太子宮門郎を経て司議郎孟利貞らと『瑤山玉彩』を撰し秘書郎に遷った。調露中、中書舎人・呉興県男。則天臨朝後、夏官侍郎。従父弟敬節が徐敬業の乱に加わった連座で桂州都督府長史に貶された際、則天が符瑞を好むのに乗じ、嶺南で「武」の字を含む山川草木の名を上奏し、天官侍郎に召し戻された。人選に優れ時人に称された。
  • 長寿二年、文昌左丞・同鳳閣鸞台平章事。左右史が仗下後の議論に立ち会えず記録が失われる制度の不備を指摘し、宰相一人が仗下の軍国政要を記録する「時政記」の制を建議し毎月史館に送るよう定めた。宰相による時政記の撰録は璹に始まる。同年九月、事に坐して司賓少卿に転じ知政事を罷免。延載初、納言に抜擢された際、従父弟の犯罪を理由に侍臣不適格との議が出たが、璹は王導・嵆紹の故事を引いて自らの進退は聖恩次第と述べ、則天は「これは朕の意だ、忠を尽くせばよい」と留任させた。
  • 武三思が端門外に天枢を造り周徳を頌するのを督作使として担当。証聖初、秋官尚書・同平章事。明堂焼失に際し則天が正殿を避け咎を負おうとしたのを、璹は「これは人火であって天災ではない」と諫め、劉承慶の異論を退けさせた。天枢造営の功で父処平に博州刺史を追贈された。嵩岳封禅の儀注撰定・封禅副使、明堂再建の督作使も務め銀青光禄大夫を加えられた。
  • 大石国の使者が獅子を献じようとした際、猛獣の飼育に伴う殺生と費用を諫めて献上を止めさせた。九鼎に黄金千両を塗る計画にも「神器は質朴を貴ぶ、既に五彩の輝きがある以上金色は不要」と諫め、則天はこれに従った。
  • 契丹侵入に対し梁王武三思の副使として榆関道安撫を務めた後、事に坐して神功初益州大都督府長史に左授。蜀中の貪暴な官吏を摘発し、則天から璽書で「厳霜に貞松、疾風に勁草」と称賛された。
  • 新都丞朱待辟の贓罪をめぐる獄で沙門理中との共謀の疑いから連座者千人近くを誅し、五十余家が籍没、十中八九が反乱への関与を疑われるなど冤罪が多発した。監察御史袁恕己が弾劾したが処分は有耶無耶に終わった。地官尚書・冬官尚書・西京留守を歴任し、長安中致仕を願い出て許され伯爵に進み、官名復旧後は工部尚書。神龍元年卒、薄葬を遺命し越州都督を贈られ諡は成。

姚珽(璹弟、附伝)――節愍太子への諫言

  • 弟の珽は勤学で自立し明経に及第、定・汴・滄・虢・豳の五州刺史を歴任し銀青光禄大夫・秦州刺史に転じ善政で璽書に褒められ絹百匹を賜った。神龍元年、宣城郡公に累封、太子詹事・左庶子を兼ねた。節愍太子の不法な振る舞いに対し繰り返し上書して諫めた。要旨は四点。第一に東宮内の作坊による工匠出入りが宮禁の秘に反すると停止を求め、第二に漢文帝・斉高帝の質素倹約の故事を引いて奢侈の抑制を求め、第三に門閤の出入簿の厳正化を求め、第四に司経の学士・侍読の不在を指摘し経史の学習の充実を求めるものであった。
  • 上疏は太子に称賛されたが改まらず、太子敗死後に諫書が発見され中宗はその剛直を嘉した。宮臣が皆貶黜される中、珽だけは右散騎常侍に抜擢され、まもなく秘書監に遷った。
  • 睿宗即位後、戸部尚書・太子賓客を歴任、先天二年金紫光禄大夫を加えられ再び戸部尚書。珽と兄璹は数年の間にそろって定州刺史・戸部尚書となり時人に栄誉とされた。開元二年卒、年七十四。曾祖姚察が撰した『漢書訓纂』が後世の『漢書』注釈者に名を伏せて剽窃されていたことを問題視し、『漢書紹訓』四十巻を撰して旧義を明らかにし世に行われた。

史論

  • 史臣は評す。天子に諍臣七人あれば無道でも天下を失わないというが、廬陵王(中宗)が復位し唐の命脈が中興したのは狄仁傑一人の功に帰せられる。革命の時代に邪臣が満ちる中、誠を尽くし身命を賭した者でなければこれは成し得なかった。仁傑は流死を恐れず骨鯁の節を貫き、殺戮を好んだ則天をも大義に畏れさせ、ついに天下を保った。
  • 王方慶は南海に幹城の任を果たし東宮を輔け、台閣枢機のいずれにも功があり、「君子は器ならず」というにふさわしい。文学によらねばこれは成し得なかったであろう。姚璹は成都で善政を布いたが、終始一貫はしなかった。宰相としての上章にも当否があった。明堂焼失に正殿を避けることを諫めたのは正しいが、唐の頌を退け天枢を立てさせたのは失策であった。符瑞を妄りに求めたことは忠貞を損ない、獄事での過酷な処断も過ちを補い得ない。徳が一定せず、羞を招くことを恐れなかった。珽は諫言の才があり、地方官としても善政が多く、儲宮の輔導の任は人を得たといえる。

  • 賛して曰く。顔を犯し旨に逆らい、政を正して危うきを扶く。人々は様々な事に関わったが、狄仁傑だけがこれを成し得た。ついに武氏に代わり唐の基を回復した、その功は最も大きく、人はこれに師表を仰ぐことができない。方慶の才は周旋の中でも独り屹立していた。璹の徳は一定でなかったが、珽はよく節を守った。