舊唐書卷八十九 列傳第三十九 王方慶

清廉な地方官

  • 雍州咸陽の人、周の少司空石泉公褒の曾孫。先祖は琅邪から南渡し丹陽に居した江左の名族で、褒が関中に北遷して咸陽に家した。祖鼒は隋の衛尉丞。伯父弘讓は貞観中中書舎人。父弘直は漢王李元昌の友となり、狩猟に耽る元昌を諫める上書をし、いったんは元昌を思いとどまらせたが次第に疎まれ荊王友に転じ、龍朔中に卒した。
  • 方慶は十六歳で越王府参軍となり、記室任希古に『史記』『漢書』を学んだ。永淳中、太僕少卿。則天臨朝後、広州都督。前任の路元睿が異国商人の財貨を貪ったため昆侖人に殺害される事件があったが、方慶は数年の在任中秋毫も犯さず、管内首領の暴虐を取り締まり境内は清粛となった。「有唐以来広州を治めた者に方慶に勝る者はない」と評され、則天は絹雑采六十段等を賜り褒めた。
  • 証聖元年、洛州長史・銀青光禄大夫・石泉県男。万歳登封元年、并州長史・琅邪県男に転ぜられるも赴任前に鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事、まもなく鳳閣侍郎。
  • 神功元年、建安王武攸宜の契丹討伐凱旋に際し、忌月による軍楽の可否が議論となった折、方慶は礼経に「忌日」はあっても「忌月」の規定はないと考証し、晋の穆帝の故事を引いて軍楽演奏を可とし則天はこれに従った。則天が万安山玉泉寺への険しい山道を腰輿で登ろうとした際には、漢元帝が危険な楼船を避け橋を渡った故事を引いて諫め、行幸を止めさせた。同年、石泉子に改封。
  • 明堂での告朔の礼をめぐり、司礼博士辟閭仁諝が「天子に毎月告朔の礼はない」と奏したのに対し、方慶は『穀梁伝』を引いて「天子も閏月に告朔する」と反論し、先儒の説では天子は年十八度明堂に入るとされることなどを詳論した。則天が春官に諸儒を集めて議させたところ、成均博士呉揚善・太学博士郭山惲らが方慶の議に従うべきと奏し、詔でこれに従った。
  • 則天が方慶家の蔵書を求めた際、方慶は十代従伯祖王羲之の書四十余紙のうち一巻が現存すること、十一代祖導以下二十八人の書十巻を進上した。則天は武成殿で群臣に示し、中書舎人崔融に『宝章集』を撰させて事跡を記し、方慶に返賜した。当時大変な栄誉とされた。
  • 喪中の礼を乱す朝官の風潮を正すよう上言しこれが聞き入れられ、老病により麟台監修国史に転じた。中宗が東宮に立つと検校太子左庶子を兼ねた。
  • 聖暦二年、則天が季冬の講武を孟春に延期しようとした際、方慶は『礼記月令』を引いて孟春の用兵は陰陽の理に反し水害・霜害を招くと諫め、則天は手勅でこれを容れ孟冬に改めさせた。同年、正式に太子左庶子・石泉公に叙せられ皇太子の侍読も兼ねた。また臣下が皇太子の実名を口にしない先例(晋の山濤の故事等)を挙げ、東宮の殿門の名が太子の名と重なる不都合を改めるよう上言し、詔でこれに従った。
  • 長安二年五月卒、袞州都督を贈られ諡は貞。中宗即位後、宮僚であった旧縁により吏部尚書を追贈。博学で著述を好み雑書二百余巻を撰し、特に『三礼』に精通し『礼雑答問』として編まれた。蔵書は秘閣に劣らず多く図画の異本も多かったが、子孫はこれを守れず没後散逸した。長子光輔は開元中潞州刺史。少子晙は能書で知られ琴棋にも長じ、厳格な性格で殿中侍御史に至った。