父の忠死と自身の剛直
- 洺州邯鄲の人。父君愕は隋大業末、并州の反乱者王君廓に投降を説き、井陘の険を先取するよう進言し、まもなく義師(唐の挙兵勢力)に帰順して大将軍を拝命、戦功を重ねて新興県公に封じられ左武衛将軍に進んだ。太宗の遼東征討に従い駐蹕山の戦いで先鋒として力戦し戦死した。太宗は深く哀悼し左衛大将軍・幽州都督・邢国公を贈り昭陵に陪葬させた。
- 及善は十四歳で父の王事殉難により朝散大夫を授けられ邢国公を襲爵。高宗時、左奉裕率に累進。孝敬皇太子が東宮にあった折、宴席で酒令の遊戯(倒立芸)を命じられたが「殿下には楽官がいる、これは自分の職務ではない」と辞退し、太子は謝して免じた。高宗はこれを聞いて絹百匹を賜り、右千牛衛将軍に任じて「他の者は取次を経ねば朕の前に来られないが、卿は大横刀を帯びて朕のそばに侍る、この官の貴さが分かるか」と語った。病により免官、まもなく衛尉卿に起用。
- 垂拱中、司属卿を経て山東の飢饉に対する巡撫賑給使。春官尚書・秦州都督、益州大都督府長史。老病を理由に致仕を願い光禄大夫を加えられたが、契丹の乱で山東が不安定になると滑州刺史に起用された。則天は「病身でも妻子を連れゆっくり赴任し朕とともにこの州を治め河北への道を断て」と語り、朝廷の得失を問うと十余条の治乱の要を答え、則天は「それは末事、これ(滑州赴任)が本だ」と赴任を止めて内史に留めた。
- 御史中丞来俊臣が誣告で多くの賢者を陥れていたが、俊臣が罪を得て獄に下った際、則天が赦そうとしたのを及善は「俊臣が信任するのは屠殺人・商人など小人、誅殺するのは名徳の君子、元凶を絶たねば朝廷を揺るがす禍となる」と奏して赦免を止めさせた。則天が廬陵王を召還し皇太子に立てる際にはこれを賛成し、太子の外朝出御による人心の慰撫も進言し容れられた。
- 学問はなかったが清廉な官として知られ、大事に臨んでも動じない大臣の節があった。張易之兄弟が寵を恃んで内宴で臣礼を欠いた振る舞いをするたび、及善はこれを抑えるよう奏し、則天の不興を買った。則天が「卿は高齢ゆえもう侍遊せず閤中の検校のみでよい」と言ったのを機に病と称して月余休むと、則天は問いもしなかった。及善は「中書令が天子に一日も謁見できないとはどういうことか」と嘆じ、致仕を三度上疏したが許されなかった。聖暦二年、文昌左相を拝命したが旬日で薨去、年八十二。廃朝三日、益州大都督を贈られ諡は貞、乾陵に陪葬。