舊唐書卷八十五 列傳第三十一 孫處約

諫言と国政参与

  • 汝州郟城の人。貞観中、斉王李祐の記室となった。李祐が徳を失った時、処約はしばしば上書して諫めた。李祐誅殺後、太宗自ら家の文書を検めて処約の諫書を見出し大いに賞賛した。中書舎人に累進。中書令杜正倫が舎人を一人増やし処約と共に制誥を知らせようとしたが、高宗は「処約一人で私の事を十分に処理できる、何故増員が必要か」と述べた。処約は《太宗実録》編纂の功で絹七百段を賜った。中書侍郎に三遷し、李勣・許敬宗と共に国政を知った。中宮の諱を避け茂道と改名。事に坐して司礼少常伯に左遷。顕慶中、少司成となり老病を理由に致仕を願い許され、まもなく没した。子の孫佺は睿宗の代に左羽林大将軍となり契丹との戦いで戦没した。

楽彦瑋――劉洎冤罪論への諫言

  • 雍州長安の人。顕慶中、給事中。故侍中劉洎の子が上言し、劉洎が貞観末に褚遂良に讒言されて無実の罪で死んだと冤罪を訴え、中書侍郎李義府もこれを支持した。高宗が近臣に問うと皆李義府の意向を汲んで劉洎の無実を主張したが、彦瑋だけは「劉洎は大臣であり行動は規矩に合うべきであった、人主が一時体調を崩したくらいで国を裏切る意図があると解釈すべきではないが、先朝の処分が不当だったとは言い切れない、劉洎の罪を雪げば先帝の刑罰が不当だったことになりかねない」と進言し、これによりこの件は打ち切りとなった。
  • 彦瑋はまもなく喪に服し、その後唐州刺史として起用された。入朝の折、高宗はその直言を憶えており改めて東台舎人に任じた。西台侍郎・同東西台三品に累進。乾封元年、劉仁軌に代わり大司憲となり官名が旧に復すと御史大夫と改称された。上元三年没し秦州都督を追贈、永昌年間、子の楽思晦の栄達により揚州大都督を追贈された。楽思晦は則天の代に鸞台侍郎・検校天官尚書・同鳳閣鸞台三品に至ったが酷吏に殺害された。