出自と隋末の経歴
- 段志玄、齊州臨淄の人。父の偃師は隋末、太原郡司法書佐で高祖の挙兵に従い郢州刺史に至った。志玄は父に従い太原にあり、太宗に厚遇された。
- 義兵挙兵時、志玄は千余人を募り右領大都督府軍頭を授かった。霍邑平定・絳郡攻略・永豐倉攻めで先鋒を務め、左光祿大夫に累遷。
- 劉文靜に従い潼關で屈突通を拒んだ際、文靜が屈突通の将桑顯和に襲われ軍営が崩れると、志玄は二十騎で駆けつけ数十人を殺して戻った。流矢が足に当たったが軍心の動揺を恐れ黙して再三賊陣に入った。これにより顯和軍は乱れ、大軍は勢いを盛り返し撃破した。屈突通が逃げた際は諸将と追撃してこれを擒えた。この功で樂遊府驃騎將軍を授かる。
- 王世充討伐で深く陣に入り馬が倒れ賊に捕らえられかけたが、髻を挟む二騎を振り落として脱出、追う数百騎も敢えて迫らなかった。竇建德撃破・東都平定でも功多く、秦王府右二護軍に遷り賞物二千段を賜った。
- 隱太子建成・巢剌王元吉が金帛で誘ったが志玄は拒んで受けず、密かに太宗に報告。ついに尉遲敬德らとともに建成・元吉誅殺に加わった。
貞觀年間
- 太宗即位後、左驍衞大將軍に累遷し樊國公に封じられ食實封九百戸を受けた。
- 文德皇后の葬送の際、志玄は宇文士及と分けて肅章門で士馬を統率。夜、太宗が宮官を両将軍のもとに遣わすと士及は営を開けて使者を入れたが、志玄は「軍門は夜開けられぬ」と拒み、「手敕がある」と言われても「夜中は真偽を弁えられぬ」として使者を朝まで留めた。太宗はこれを聞き「これぞ真の将軍、周亞夫にも劣らぬ」と嘆じた。
- 貞觀十一年、世封の制が定まると金州刺史を授かり褒國公に改封。十二年、右衞大將軍を拝す。十四年、鎮軍大將軍を加えられる。
- 十六年、病に伏すと太宗自ら見舞い涕泣して別れ、「卿の子に五品を与えよう」と言ったが、志玄は頓首して母弟志感への回授を固く請い、太宗は志感に左衞郎將を授けた。卒すると太宗は哀を発し慟哭し、輔國將軍・揚州都督を贈り昭陵に陪葬、謚を忠壯とした。十七年正月、凌煙閣に図形の詔が下った。
- 子の瓚は褒國公を襲爵し、武太后の時、左屯衞大將軍に至った。子の懷簡は爵を襲い、開元中、太子詹事に至った。