舊唐書卷六十八 列傳第十八 張公謹

出自と隋末の経歴

  • 張公謹、字は弘慎、魏州繁水の人。初め王世充の洧州長史であった。武德元年、王世充の署した洧州刺史崔樞とともに州城を挙げて帰国し、鄒州別駕を授かり右武候長史に累除された。
  • 当初無名であったが、李勣・尉遲敬德がこれを推挙し幕府に引き入れられた。太宗が隱太子建成・巢王元吉に忌まれていた頃、公謹を召して自安の策を問うと、その答えが意に合い次第に親しまれた。
  • 太宗が建成・元吉討伐を決するに際し、卜者に亀卜を占わせようとしたところ、公謹が外から来てこれを地に投げ捨て「卜筮は嫌疑を決するもの、既に事すでに疑いなければ何を卜すことがあろうか、たとえ不吉と出ても事は已めがたい」と進言、太宗は深くこれを是とした。

玄武門の変とその後

  • 六月四日、公謹は長孫無忌ら九人とともに玄武門に伏して変に備えた。建成・元吉を斬ると、その党が玄武門を攻め兵鋒甚だ盛んであったが、公謹は勇力をもって独り門を閉じてこれを拒いだ。
  • この功で左武候將軍に累授され定遠郡公に封じられ実封千戸を賜った。貞觀元年、代州都督を拝し、屯田設置による転運省略を上表、時政の得失十余事も建言し、いずれも採用された。
  • のち李靖の突厥経略に副将として遣わされ、公謹は突厥攻略の好機を六点にわたって説いた。頡利可汗が縦欲肆情で良善を害し小人を近づけていること(主が上で昏いこと)、同羅・僕骨・回紇・延陀ら別部が自立し離反の兆しにあること(衆が下で叛くこと)、突厥が疑心暗鬼で将兵が敗れていること(兵挫け将敗れること)、塞北の霜害で糧食が乏しいこと、頡利が突厥を疎んじ諸胡を重用し胡人の心が離れやすいこと、中国から北へ入った漢人が多く互いに集結し山険に拠り呼応する構えにあること、を挙げた。太宗はこれを深く納れた。
  • 定襄を破り頡利を敗ると璽書で慰労され鄒國公に進封。襄州都督に転じ善政を敷いたが官にて卒去した。年三十九。太宗は嘆き哀を発しようとしたが、有司が「陰陽書によれば辰の日は哭泣すべきでなく俗にも忌む」と奏したところ、太宗は「君臣の義は父子に同じ、情は衷より発する、どうして辰日を避けられよう」として哭した。左驍衞大將軍を贈り謚を襄とした。十三年、旧功を追思し郯國公に改封。十七年、凌煙閣に図形。永徽中、荊州都督を追贈された。
  • 長子の大象は爵を嗣ぎ戸部侍郎に至った。次子の大素・大安はともに知られた。

子孫(附伝)

  • 大素は龍朔中、東臺舍人を歴任し国史編纂を兼ね、懷州長史に卒した。『後魏書』百卷、『隋書』三十卷を撰した。
  • 大安は上元中、太子庶子・同中書門下三品を歴任。章懷太子が春宮にあった時、太子洗馬劉訥言らとともに『范曄後漢書』に注を付けた。宮が廢されると普州刺史に左授され、光宅中、橫州司馬にて卒した。
  • 大安の子涚は開元中、國子祭酒となった。

史論

  • 史臣曰く、敬德は槊を奪い陣を陥して王師を鼓舞し、賂を退けて恩に報い忠を尽くして覇業を助けたが、拳を振るい気を負ったのは自全の道ではなく、太宗の告誡は功臣への良薬というべきである。叔寶は馬槊をよくし寡をもって衆に敵し賊塁を抜いた勇者、知節は国難を平らげる志を持ち鷹揚な地位に至って君に命を致した忠臣であり、ともに世充の猜貳を見抜き唐の覇図を識った見識ある君子であった。志玄は矢傷を語らず軍旅を安んじ、公謹は亀卜を投げて議を定め儲君を助けた。皆いわゆる猛將謀臣、機を知り変を識る者たちであり、唐の盛運はこれらに拠るところが実に大きい。

  • 贊に曰く、太宗の経綸は実に虎臣に頼った。胡國公・鄂國公ら諸将は身を顧みず奮戦し、その姿は凌煙閣に描かれ厳粛な祭祀に配食された。功績は簡冊に光り輝き、君恩に報いたのである。