舊唐書卷六十八 列傳第十八 程知節

出自と隋末の経歴

  • 程知節、本名咬金、濟州東阿の人。若くして驍勇、馬槊を得意とした。大業末、数百人を集め郷里を保った。
  • のち李密に依り內軍驃騎とされた。密は軍中の勇士八千人を選び四驃騎に隷させ、內軍と号し「この八千人は百萬に匹敵する」と称した。知節はその一を領し厚遇された。
  • 王世充との決戦で知節は內馬軍を領し密と北邙山に営し、單雄信は外馬軍を偃師城北に営した。世充が雄信の営を襲うと、密は知節と裴行儼を援に遣わした。行儼が先駆けて流矢に当たり墜落すると知節がこれを救い数人を殺して抱えて帰り、追撃する世充騎兵の槊を折って行儼と共に免れた。
  • 密が敗れると世充に厚遇されたが、知節は秦叔寶に「世充は器度浅狭で妄語多く巫師老嫗のようで乱を治める主ではない」と語り、九曲での対陣時、叔寶らと共に馬上で世充に別れを告げ、数十人で帰国した。世充は懼れて追わなかった。
  • 秦王府左三統軍を授かり、宋金剛を破り竇建德を擒え王世充を降す各戦に左一馬軍總管として毎陣先登し、功により宿國公に封じられた。
  • 武德七年、建成に忌まれ高祖に讒言され康州刺史に出されそうになると、知節は太宗に「大王の手足を今すべて剪除されれば身は久しからず、死んでも去らぬ、速やかに自全を」と進言。

玄武門の変とその後

  • 六月四日、太宗に従い建成・元吉を討った。事定まり太子右衞率を拝し、右武衞大將軍に遷り実封七百戸を賜った。
  • 貞觀中、瀘州都督・左領軍大將軍を歴任。長孫無忌らと代襲刺史となり盧國公に改封、普州刺史を授かる。十七年、左屯衞大將軍に累転し北門屯兵を検校、鎮軍大將軍を加えられた。永徽六年、左衞大將軍に遷る。
  • 顯慶二年、蔥山道行軍大總管として賀魯を討伐。怛篤城で胡人数千家が開門降伏したが、知節はこれを屠城して去り、賀魯は遠く逃げた。帰還後、この件で免官となった。まもなく岐州刺史を授かるが致仕を乞い許された。
  • 麟德二年に卒し驃騎大將軍・益州大都督を贈られ昭陵に陪葬。子の處默は盧國公を襲爵。處亮は功臣子として太宗女清河長公主に尚し駙馬都尉・左衞中郎將を授かった。少子の處弼は右金吾將軍に至り、その子伯獻は開元中、左金吾大將軍となった。