舊唐書卷六十五 溫大雅・陳叔達・竇威

温大雅

  • 温大雅は字彦弘、太原祁の人。父の温君悠は北斉の文林館学士、隋の泗州司馬。大業末、司隸従事となるも隋政の乱れを見て病を理由に帰郷。
  • 至孝で少より学を好み才弁で知られた。隋東宮学士・長安県尉を父の喪で辞し、天下の乱を見て仕進を求めなかった。高祖の太原鎮守時に厚遇され、義兵挙兵後は大将軍府記室参軍として文翰を専掌。禅代の際、司録竇威・主簿陳叔達と共に礼儀を参定した。
  • 武徳元年、黄門侍郎。弟の温彦博が中書侍郎として並び近密に居り、世に栄えあるものとされた。高祖は「我が義を晋陽に起こすは卿一門のためのみ」と語った。工部を経て陝東道大行台工部尚書。太宗は隠太子・巣刺王の変に備え温大雅に洛陽鎮守を命じ、秘策を重ねて嘉賞された。
  • 太宗即位後、礼部尚書・黎国公。祖父の改葬の際、占者に「この地に葬れば兄を害し弟を福す」と言われ、「弟の永康(温彦博)が無事ならば笑って地に入れる」と述べた。葬儀の翌年に卒し、謚は孝。『創業起居注』三巻を撰した。永徽五年、尚書右僕射を追贈。子の温無隠は工部侍郎に至った。

温大雅――弟 温彦博

  • 温彦博は幼くして聡悟、口弁に長け書記に通じた。父の友人薛道衡・李綱は温家三兄弟を評して「皆卿相の才」と嘆じた。開皇末、州牧秦孝王楊俊の推薦で文林郎・直内史省、通直謁者。
  • 隋乱時、幽州総管羅芸に司馬として招かれ、羅芸の唐帰順を賛助し幽州総管府長史。のち中書舎人・中書侍郎・西河郡公。高麗の朝貢に際し、高祖の「臣属を強いない」との意向に対し温彦博は「遼東は周の箕子国、漢の玄菟郡であり中国の一部、夷狄と対等の礼をとれば四夷が瞻仰しない」と諫め、高祖はこれに従い詔を止めた。
  • 突厥入寇時、并州道行軍長史として張瑾に従い太谷で敗戦、突厥に捕らえられ、国情を厳しく問われても口を割らず、頡利可汗の怒りで陰山の苦地に遷された。太宗即位後、突厥送款で帰朝、雍州治中・検校吏部侍郎。人事の沙汰で退けられた者の訴訟に応じ喧擾を招き識者に嗤われたこともあった。
  • 中書侍郎・太子右庶子を経て貞観二年、御史大夫・検校中書侍郎事。応対に長け声韻高朗で観る者の目を引いた。四年、中書令・虞国公。高祖の宴で太宗が近臣に「何如温彦博」と問うほど重んじられた。

温彦博――突厥処遇論争

  • 突厥降伏後の安辺策を巡り、朝臣の多くは「河南に俘虜を分散し州県に属させ耕作させ風俗を変えれば百万の胡虜も漢化できる」と主張したが、温彦博は「漢の建武帝が五原塞下に降匈奴を部落ごと置いた例に倣い、土俗を離さず撫すべき」と唱え、太宗はこれを採り朔方の地に処し長安に近い者は近く万家に及んだ。
  • 議論はなお続き、突厥国を河外に建てるべきとの意見に対し温彦博は魏徵らと数年論争し「既に納めた以上、故なく去らせるのは惜しい」と主張した。十年、尚書右僕射に遷り、翌年薨、年六十四。国政を憂い賓客を絶ち、太宗が「彦博は憂国のために精神を労し衰えを見て既に二年、閑逸を得させなかったことを悔いる」と語った。家に正寝なく別室に殯し、太宗は有司に堂を造らせた。特進を追贈、謚は恭、昭陵に陪葬。子の温振は太子舎人、喪に毀して卒した。弟の温挺は高祖の女千金公主に尚し延州刺史に至った。

温大雅――弟 温大有

  • 温大有は字彦将、性は端謹で学行で知られた。隋仁寿中、尚書右丞李綱の推薦で羽騎尉。喪で帰郷後、義旗挙兵で高祖に太原令として引かれた。太宗の西河攻略に従い、高祖から「この一戦の成否で帝業の成否を占う」と言われた戦に功を挙げ、大将軍府記室を摂し兄温大雅と共に機密を掌った。
  • 兄弟が同じ機務に居ることを不安視し他職を求めたが、高祖は「疑わぬ」と慰留した。それでも謙譲を貫き遠く機権を避けたことが評価された。武徳元年、中書侍郎。卒去し高祖は深く惜しみ鴻臚卿を追贈。
  • 温大雅は隋朝で顔思魯と東宮に同直、温彦博は思魯の弟愍楚と内史省に同直、温大有は愍楚の弟游秦と秘閣校書を共にし、両家の兄弟はそれぞれ一時の人物と称された。学業では顔氏が優れ、官位では温氏が盛んであった。

陳叔達

  • 陳叔達は字子聡、陳宣帝第十六子。容止に優れ才学あり、陳で義陽王に封じられた。十余歳で侍宴の際に十韻の詩を即座に賦し、僕射徐陵に奇才とされた。侍中・丹陽尹・都官尚書を歴任。
  • 入隋後は久しく登用されず、大業中に内史舎人、絳郡通守。義師が絳郡に至ると郡を挙げて帰款し丞相府主簿・漢東郡公。温大雅と共に機密を掌り、軍書・赦令・禅代文誥の多くを起草した。
  • 武徳元年、黄門侍郎。二年、納言を兼ね、四年、侍中。明弁で容止に優れ、上奏のたびに搢紳が注目した。江南の名士で長安に薄游する者を多く薦抜した。五年、江国公に進封。御前で葡萄を賜り食べずにいたところ、高祖が理由を問うと「母が口乾を患い、これを持ち帰りたい」と答え、高祖は「卿に母を遺す(贈る)ものがあったか」と涙して物三百段を賜った。
  • 貞観初、光禄大夫加増。蕭瑀との対御での争いで免官、間もなく母の喪。太宗は病身を案じ弔問を禁絶させた。服除後、遂州都督は病で赴かず、礼部尚書。建成・元吉が太宗を讒言した際、高祖が動揺したのを固く諫めて止めた。太宗は即位後「武徳の危難時に讜言があったことを知る」と労い、陳叔達は「陛下のためのみならず社稷のためでした」と謝した。のち家内不整の罪で憲司に劾せられたが、名臣を惜しみ散秩で帰第を許された。九年卒、謚は繆、後に戸部尚書を追贈し謚を忠と改めた。文集十五巻。

竇威

  • 竇威は字文蔚、扶風平陸の人、太穆皇后の従父兄。父の竇熾は隋の太傅。家は勲貴が多く諸兄は武芸を尚んだが竇威は文史に耽り「書痴」と哂われた。
  • 隋の内史令李徳林の推挙で秀異に挙げられ秘書郎。十余年秘書に留まり学業を広げた。諸兄が軍功で顕達する中「孔子も棲遅した、名位が達しないのも道理」と嘲られたが答えなかった。蜀王楊秀に記室として辟され、楊秀の不法を見て病と称して帰郷、廃黜に連座を免れた。
  • 大業四年、内史舎人に累遷、得失を陳べて旨に忤らい考功郎中に転じ、のち事に坐して免官、京師に帰った。高祖入関で大丞相府司録参軍に召され、朝章国典・五礼の制定に関わり禅代の文翰にも参与、高祖は「叔孫通も及ばない」と裴寂に語った。
  • 武徳元年、内史令。奏議は雍容で古を引いて諭し、高祖に親重され膝を交えるほどであった。高祖は「周の八柱国の貴を今また共に得た、本同末異なり不平等だ」と語ると竇威は外戚三代の家系を謙遜して答え、高祖は「関東人が崔・盧と婚するのを誇るが、卿は代々帝戚、貴くないはずがない」と笑った。病没に際し高祖自ら見舞い、家に余財なく薄葬を遺言、謚は靖、同州刺史・延安郡公を追贈。文集十巻。子の竇惲が爵を継ぎ岐州刺史に至った。兄の子の竇軌、従兄の子の竇抗も知られた。

竇威――兄子 竇軌

  • 竇軌は字士則、周の雍州牧・酂国公竇恭の子。隋大業中、資陽郡東曹掾を辞し帰郷、義兵挙兵で千余人を集め長春宮に参じ、高祖に厚遇され渭南略地を命じられた。永豊倉を先んじて下し五千人を得た。京城平定後、賛皇県公・大丞相諮議参軍。
  • 稽胡の賊五万が宜春を掠めた際、黄欽山で賊に敗色を見せる軍を斬った部将の代わりを立て自ら殿を率いて士卒を叱咤し大破、首千余級・男女二万口を虜にした。武徳元年、太子詹事。赤排羌の乱と薛挙残党討伐で秦州総管、酂国公に進封。
  • 三年、益州道行台左僕射として便宜従事を許され、党項の松州侵攻に扶州刺史蒋善合と連携して撃退、左封で敵を破った。太宗の王世充討伐にも従軍。四年、益州に戻り蜀土の寇を平定。
  • 軍規は苛烈で、部下は罪あれば即斬、日々鞭撻で血が庭に満ち恐れられた。甥を怒りで斬り、奴を漿を汲む遅れで斬るなど酷薄な逸話が多く残る。行台郎中趙弘安(知名士)も度々榜箠された。入朝時、御榻での不敬な態度を高祖に厳しく叱責され下獄も釈放され益州に戻った。
  • 行台尚書韋雲起・郭行方と不仲で、隠太子誅殺の詔を隠し韋雲起を「卿は反せんとするか」と処刑、郭行方は逃亡した。同年、行台廃止で益州大都督・食邑六百戸加増。貞観元年、右衛大将軍、二年、洛州都督として隋末の浮偽の風を正し、四年に卒官、并州都督を追贈。子の竇奉節が高祖の女永嘉公主に尚し左衛将軍・秦州都督を歴任。

竇威――竇軌の弟 竇琮

  • 竇琮も武幹あり、隋の左親衛。大業末、犯法して太原の高祖に亡命。太宗との旧怨を恐れたが太宗に厚遇され心解けた。義挙で協賛の功、大将軍府建立で統軍、西河・霍邑平定で金紫光禄大夫・扶風郡公。
  • 劉文静の屈突通討伐に従い、桑顕和の逼迫に段志玄らと力戦、屈突通を稠桑で捕らえた。陝県・太原倉を攻略し右領軍大将軍、物五百段。独孤武の帰順支援に遅参し武が殺され除名となるも、武徳初に元謀の勲で右屯衛大将軍・右領軍大将軍に復した。
  • 陝城留守で糧運を督し、王世充将羅士信を利害で説き投降させた。東都平定の賞物千四百段。晋州総管を検校、隠太子の劉黒闥討伐に従い譙国公・黄金五十斤を賜るも間もなく卒去。左衛大将軍を追贈、謚は敬。永徽五年、重ねて特進を追贈。

竇威――従子 竇抗

  • 竇抗は字道生、太穆皇后の従兄、隋の洛州総管・陳国公竇栄の子。母は隋文帝の万安公主。帝甥として崇寵を受け、千牛備身・儀同三司から出発。父の病に五十余日衣を解かず看病、喪に哀毀を極めた。
  • 陳国公を襲爵、梁州刺史赴任時に文帝が第を訪ね家族の礼で宴し厚く賞賜。母の喪では号慟して幾度も気を失い、文帝が宮人を遣わし哭泣を節させた。岐州刺史・幽州総管を歴任し寛恵の政で知られた。
  • 漢王楊諒の乱で煬帝は竇抗を疑い李子雄を代官として送り除名にした。楊玄感の乱で高祖に「李氏は図籙の名あり、天の啓くところ」と語り、高祖は「無為に禍を招くな」と制した。大業末、霊武で長城巡視中に高祖の京城平定を聞き「これぞ我が家の妹婿、豁達大度、真に撥乱の主」と喜び長安に帰った。
  • 高祖に大いに歓迎され「李氏ついに成事、いかん」と握手して酒宴。将作大匠、武徳元年、納言を兼ね、朝で「兄」と呼ばれ名で呼ばれず、宮中で「舅」と称された。左武候大将軍・左右千牛備身大将軍に転じ、太宗の薛挙・王世充討伐に従い勲功第一の一人。東都平定の冊勲太廟九人に従弟竇軌と共に列した。武徳四年、侍宴中に急死、司空を追贈、謚は密。子の竇衍が爵を襲い左武衛将軍に至った。当時竇抗の三品親族が七人、四・五品が十余人、尚主が三人、妃が数人と冠冕の盛んさ当朝無比であった。

竇抗――子 竇靜

  • 竇靜は字元休、竇抗の第二子。武徳初、并州大総管府長史として突厥への軍糧不足を憂い太原の屯田設置を上奏したが議者に退けられた。頻繁に上奏し切実に訴え、高祖の下で裴寂・蕭瑀・封徳彝らと殿庭で論争し、竇靜の議が通り年に数千斛を収め検校并州大総管となった。突厥防備のため石嶺遮断も奏請し許された。
  • 太宗即位後、司農卿・信都男、夏州都督。突厥の動揺に乗じ部落を離間させ、郁射設配下の郁孤尼ら九俟斤を帰順させ馬百匹・羊千口を賜った。頡利捕獲後の処遇に関し「夷狄は禽獣に同じ、刑法でも仁義でも制せず、衣食を給し続けるのは無益、賢王号を仮し宗室の女を妻あわせ土地・部落を分割し勢力を弱めるべき」と上奏、直ちには採られなかったが太宗はその志を嘉した。「北方の務めは全て卿に委ねる、寧朔大使として華戎を撫鎮せよ」と制した。民部尚書に累遷、貞観九年卒、謚は肅。子の竇逵は太宗の女遂安公主に尚し信都男を襲爵。

竇抗――子 竇誕

  • 竇誕は竇抗の第三子。隋仁寿中、朝請郎から起家。義寧初、丞相府祭酒、殿中監・安豊郡公、高祖の女襄陽公主に尚した。太宗の薛挙討伐に元帥府司馬として従い、刑部尚書・太常卿。
  • 高祖の未出宮の少子(荊王元景ら十余王)の国司家産の事を主らせられ、梁州都督。貞観初、右領軍大将軍・大理卿・莘国公、太廟修営で物五百段を賜り、殿中監・宗正卿。
  • 太宗との対話で昏忘して応答できなくなり、太宗は手詔で「知不肖而任之、睹尸禄而不退」と指摘し光禄大夫に降格させ帰宅させた。間もなく卒去、工部尚書・荊州刺史を追贈、謚は安。
  • 子の竇孝慈が爵を襲ぎ左衛将軍。孝慈の子竇希玠は若くして襲爵、中宗時に礼部尚書、恩沢で実封二百五十戸。開元初、太子少傅・開府儀同三司。竇誕の少子竇孝諶は『外戚伝』にある。竇氏は武徳より当代まで再び外戚となり、一品三人、三品以上三十余人、尚主する者八人、王妃となる女六人と唐世に並ぶ者なき貴盛を誇った。

竇抗――季弟 竇璡

  • 竇璡は字之推、竇抗の末弟。大業末、扶風太守。高祖の京師平定に郡を挙げて帰し、礼部・民部二尚書を歴任。太宗の薛仁杲討伐に従う。
  • 益州鎮守で蜀中の寇賊を討平したが、蜀にいた皇甫無逸と不和で入朝を請い続けた。高祖の召還途上で再び還鎮を命じられ不満から路傍の山に題辞して鬱屈を晴らした。訪れた使者を臥内で宴し綾綺を贈った件が皇甫無逸に奏され免官となった。
  • 間もなく秘書監・鄧国公。貞観初、太子詹事、のち将作大匠として洛陽宮を修葺、宮中に池を掘り山を造り雕麗を尽くしたが太宗の怒りで取り壊させられ免官。娘を酆王妃に納めたことで復位、右光禄大夫加増。七年卒、礼部尚書を追贈、謚は安。音律に通じ、武徳中、太常少卿祖孝孫と正声雅楽を定め『正声調』一巻を撰し世に行われた。

史論

  • 得人の国は栄える。温氏一門は儒雅清顕で一時の称、陳叔達は才学明弁で二国(陳・唐)の選に選ばれた才。皆廟廊の器、社稷の臣であった。竇威は道を守り、竇軌は戦陣に臨み、竇抗は喪を居し、竇靜は経略に長け、竇璡は音律を極め、外戚でありながら顕位に至った。才能・門第が数朝にわたり輝いたのは当然のことである。ただし温彦博の狭量、竇軌の酷薄は完全な器とは言い難い。

賛にいう。温氏・陳氏は才位を兼ね、文雅で典礼に明るかった。竇氏一門は外戚として栄盛比類なかった。