舊唐書卷六十四 宗室 永安王孝基・淮安王神通・襄邑王神符・長平王叔良・襄武王琛・河間王孝恭・廬江王瑗・淮陽王道玄・江夏王道宗・隴西王博乂
永安王李孝基
- 李孝基は高祖の従父弟。父の李璋は周の梁州刺史で趙王祐と隋文帝暗殺を謀り誅殺され、高祖即位後に畢王を追封された。
- 武徳元年、永安王に封じられ、陝州総管・鴻臚卿を歴任するも罪で免官。二年、劉武周の将宋金剛が汾・澮に侵攻、夏県人呂崇茂が県令を殺し魏王を自称し武周に援を求めた。李孝基は行軍総管として討伐に赴くが、独孤懐恩・唐倹・於筠らとともに武周将尉遲敬徳の夜襲で夏県の戦に大敗し捕虜となった。帰国を謀るも武周に殺害された。高祖は発哀・廃朝三日、家に帛千匹を賜り、屍が得られぬまま招魂葬とし左衛大将軍を追贈、謚は壮。子がなく従兄李韶の子李道立を嗣として高平郡王に封じたが、九年に県公に降格。永徽初、陳州刺史で卒した。
淮安王李神通――隋末挙兵から山東平定
- 李神通は高祖の従父弟。父の李亮は隋の海州刺史で武徳初に鄭王を追封された。
- 隋末京師にいたが義師呼応で鄠県山南に逃れ、史万宝・裴勣・柳崇礼らと挙兵。司竹の賊帥何潘仁と結び平陽公主とも合流し鄠県を落とし一万余衆を得た。関中道行軍総管を自称、高祖は光禄大夫を授けた。
- 京師平定後、宗正卿・右翊衛大将軍・永康王を経て淮安王に改封、山東道安撫大使となる。宇文化及を魏県で破り聊城まで追撃。化及の投降申し出を拒み、副使崔干を軍中に囚えるなど強硬策を取ったが、竇建徳の来攻に押されて撤退、黎陽で徐勣に依るも建徳に陥落させられた。
- 建徳敗北後、河北道行台尚書左僕射に復し、太宗の劉黒闥討伐に従い左武衛大将軍。貞観元年、開府儀同三司・実封五百戸。太宗が功臣に自己申告を求めた際、李神通は房玄齢らより功が上だと不服を述べたが、太宗は「叔父は身を陣に投じておらず、建徳侵攻では全軍陥没、黒闥の反乱にも望風で敗れた」と厳しく退けた。四年薨去、司空を追贈、謚は靖。十四年、河間王李孝恭・殷開山・劉政会と共に高祖廟庭に配饗。子十一人、長子李道彦(膠東王)・李孝察(高密王)・李孝同(淄川王)・李孝慈(広平王)・李孝友(河間王)・李孝節(清河王)・李孝義(膠西王)。
淮安王李神通――宗室封爵制度の見直し
- 高祖は天下未定の頃、皇族を広く郡王に封じたが、太宗即位後、封徳彝の「歴代は帝子・親兄弟のみを封じ、疏遠な宗室は大功なくば濫封せず」との進言により、宗室の大半は属籍の疎密により郡公に降格、功ある者数十人のみ王に留められた。李道彦らもこの例で降爵。李道彦と末弟李孝逸が最も知られた。
淮安王李神通――子 李道彦
- 幼くして事親甚だ謹み、義師蜂起で李神通が山谷に潜伏し疾に伏した際、弊衣で乞食・野実を集めて父に供し自らは食さなかった。李神通に朝請大夫が授けられると義興郡公、のち膠東王・隴州刺史。貞観初、相州都督、降爵で公となり岷州都督。
- 父の喪に廬を結び土を負って墳を築き、容貌が変わるほど哀毀した。太宗が嘆じ、侍中王珪を遣わして開諭させた。再び岷州都督となり党項諸部を招き入れた。
- 李靖の吐谷渾討伐で赤水道行軍総管となる。党項首領拓抜赤辞が誓約を交わし糧運を約したが、李道彦は闊水で無備の赤辞を奇襲し牛羊数千頭を虜にしたため諸羌が激怒、野狐硤で待ち伏せされ大敗、死者数万に及んだ。松州に退き、減死で辺境に流されたが、のち涼州都督に起用され卒した。礼部尚書を追贈。
淮安王李神通――少子 李孝逸
- 学を好み文章に通じ、梁郡公に封じられた。高宗末、給事中、益州大都督府長史を歴任。則天臨朝で左衛将軍。
- 光宅元年、徐敬業の揚州反乱に際し左玉鈐衛大将軍・揚州行軍大総管として討伐。淮陰に進み、都梁山の韋超・淮陰の徐敬猷を薛克構の献策に従い撃破し、下阿溪で徐敬業を破って揚州を平定した。鎮軍大将軍・左豹韜衛大将軍・呉国公に進んだ。
- 名望が高まり武承嗣らに忌まれ讒毀され、垂拱二年、施州刺史に左遷。冬、益州任時の「逸」の字解(走繞兔は月中にあり、月は天に近く天分あり)を誣告され、儋州に配流、間もなく卒した。景雲初、益州大都督を追贈。孝銳の孫李齊物、孝同の曾孫李国貞は別伝あり。
襄邑王李神符
- 李神通の弟。幼くして孤児となり兄に友悌をもって仕えた。義寧初、光禄大夫・安吉郡公、武徳元年に襄邑郡王。四年、并州総管に累遷。突厥頡利可汗の侵攻を汾水東で破り首五百級・馬二千匹を得、沙河北の戦でも乙利達官と可汗の乗馬・甲を獲得し太府卿。
- 九年、揚州大都督に遷り州府・居人を丹陽に移して州人に利した。貞観初、宗正卿に再任、病で辞したが太宗自ら第を訪ね小輿での参内を許した。開府儀同三司を授かり、永徽二年薨、年七十三、司空・荊州都督を追贈、献陵に陪葬、謚は恭。
- 子七人は武徳初に郡王に封じられたが後に県公に降格。次子李徳懋・少子李文暕が最も知られた。徳懋は少府監・臨川郡公。文暕は幽州都督・魏郡公を歴任するも垂拱中に藤州別駕に左遷、のち誅殺された。文暕の子李佺は開元中に宗正卿となった。
長平王李叔良
- 高祖の従父弟。父の李禕は隋の上儀同三司、武徳初に郇王を追封された。義寧中、左光禄大夫・長平郡公、武徳元年に刑部侍郎・王爵。涇州鎮守として薛挙に備え、薛挙の偽降計に驃騎劉感を派して百里細川で伏兵に敗れ劉感が戦死。李叔良は金を出して士卒を賜り守備を固め涇州を保った。四年、突厥入寇に五軍を率い迎撃するも流矢に当たり薨去。左翊衛大将軍・霊州総管を追贈、謚は粛。
李叔良――子 李孝協と孝斌
- 子の李孝協が武徳五年、范陽郡王を襲封。貞観初、郇国公に降爵、魏州刺史を歴任。麟徳中、贓罪により賜死。
- 弟の李孝斌は原州都督府長史に至った。
李叔良――孫 李思訓・李思誨
- 李孝斌の子李思訓は高宗の時、江都令を歴任。則天革命で宗室が搆陥される中、官を棄てて潜匿。神龍初、中宗復位で宗正卿・隴西郡公・実封二百戸。益州長史を経て開元初、左羽林大将軍・彭国公、右武衛大将軍。開元六年卒、秦州都督を追贈、橋陵に陪葬。丹青に優れ「李将軍山水」と称された。
- 弟の李思誨は垂拱中、揚州参軍。子の李林甫に別伝あり。
李叔良――弟 李徳良・李幼良
- 李徳良は少より疾ありて仕えず、武徳初に新興王。貞観十一年薨、涼州都督を追贈。孫の李晋は先天中、殿中監・雍州長史として威名があり新興王を襲封したが太平公主に附会した罪で誅され厲氏に改姓させられた。誅殺の際、僚吏が皆逃げる中、司功李捴のみ礼を失わず哭き、姚崇に「欒・向の輩」と称され尚書郎に抜擢された。
- 弟の李幼良は武徳初に長楽王に封じられた。馬を盗んだ者を私刑で殺し高祖に叱責され、朝堂で撻を受けた。涼州都督在任中に無頼百余人を左右に用い暴虐が過ぎ、太宗即位後、死士を養い境外と通じる謀反の疑いで宇文士及が派遣され、変を恐れた士及に縊殺された。
襄武王李琛
- 高祖の従父兄の子。祖父の李蔚は周の朔州総管、父の李安は隋の領軍大将軍で、武徳初に李蔚は蔡王、李安は西平王を追封された。
- 義寧中、襄武郡公。太常卿鄭元璹と共に女妓を突厥始畢可汗に贈り和親を結び、始畢は名馬数百匹を答礼し骨咄禄特勒を随伴させた。刑部侍郎・王爵を授かり、蒲・絳二州総管を歴任。宋金剛の澮州陥落後、稽胡の叛乱鎮圧のため隰州総管に転じた。三年薨。子の李儉が爵を襲うも後に降爵。
李琛の弟 河間王李孝恭――蕭銑平定
- 李孝恭は李琛の弟。高祖京師平定後、左光禄大夫、山南道招慰大使として金州から巴蜀に入り礼をもって招き、降附三十余州を得た。硃粲討伐では捕虜を皆赦し「これより東は皆賊境、この事を聞けば来降者なし」と説いた。
- 武徳二年、信州総管。蕭銑討伐策を高祖に献じ嘉納された。三年、王爵に進み夔州総管として舟楫を造り水戦を習わせ、巴蜀首領の子弟を人質として自陣に集めた。荊湘道行軍総管として水陸十二総管を率い江陵を攻め、得た敵船をあえて江に放流して蕭銑の援軍を疑心暗鬼にさせる計を用いた。蕭銑は巴陵の援軍が船の漂流を見て進めず、内外絶たれて降伏した。荊州大総管を拝し屯田・銅冶を興し民に利した。
河間王李孝恭――輔公祏平定
- 六年、襄州道行台尚書左僕射。嶺南四十九州の招撫にも成功。輔公祏の反乱に対し行軍元帥として、七年、九江に趣き李靖・李勣・黄君漢・張鎮州・盧祖尚を指揮。宴席で水が血に変わる怪異が起きても動じず「禍福は人の招くところ、公祏授首の兆し」と述べ飲み干した。
- 輔公祏の将馮惠亮・陳当時が博望山に、陳正通・徐紹宗が青林山に屯するのを堅壁持久で疲弊させ、盧祖尚の伏兵で大破。梁山の馮惠亮を破り数千を溺死させ、李靖が広陵・楊子鎮を落とすと輔公祏は丹陽を捨てて逃走、武康で捕らえられ江南を平定した。璽書で褒賞され甲第・女楽二部・奴婢七百人・金宝を賜り、東南道行台尚書左僕射、のち揚州大都督。
河間王李孝恭――晩年
- 江淮・嶺南を統摂し、群雄平定において太宗麾下以外で独立の勲功を立てた稀有な存在として声名高かった。石頭に邸宅を築き廬徼を構えて自衛するなど奢侈を重ねたが、宗正卿、九年に実封千二百戸、貞観初に礼部尚書・河間郡王・観州刺史。
- 奢豪で遊宴を好み歌姫舞女百余人を抱えたが驕らず太宗に厚遇された。「邸宅が壮大に過ぎる、子が才あればこれで足り、才なければ他人の利に供するのを免れさせたい」と語った。十四年、五十歳で急逝。太宗は素服で挙哀し、司空・揚州都督を追贈、献陵に陪葬、謚は元、高祖廟庭に配享。
李孝恭――子 李崇義・李晦
- 子の李崇義が爵を襲ぐも譙国公に降爵、蒲・同二州刺史、益州大都督長史を歴任し威名あり、宗正卿で卒した。
- 次子の李晦は乾封中、営州都督として善政で名を上げ物三百段を賜り、右金吾将軍・検校雍州長史として奸豪を糾発。私邸の楼が酒肆を見下ろすことを住民に指摘されると即日取り壊した。高宗の洛陽行幸に際し在京留守を任され「令式外でも民に利あれば随事施行せよ」と委ねられた。則天臨朝で戸部尚書、垂拱初に右金吾衛大将軍、秋官尚書。永昌元年卒、幽州都督を追贈。子の李栄は酷吏に殺された。
李琛の弟 李瑊
- 李孝恭の弟。武徳中、尚書右丞・済北郡王、始州刺史で卒した。
李琛の弟 李瑰
- 李瑊の弟。京城平定で左光禄大夫、武徳元年に漢陽郡公、五年に王爵。突厥への和親使として布帛数万段を持参、頡利可汗に箕踞された屈辱にも厚利で懐柔し名馬を献じさせた。再度の使いで頡利に不屈の礼を貫き留め置かれたが、頡利も威嚇できず礼を尽くして帰した。
- 左武候将軍・衛尉卿を経て兄李孝恭に代わり荊州都督。清静な政治で士庶に慕われ、嶺外豪帥を招撫し嶺表を平定した。太宗即位後、公に降爵。長史馮長命を杖して免官となる。貞観四年、宜川刺史・散騎常侍加増で卒した。子の李沖玄は垂拱中、冬官尚書、李沖虚は尚方監で卒した。
廬江王李瑗
- 高祖の従父兄の子。父の李哲は隋の柱国・備身将軍で済南王を追封された。武徳元年、信州総管を経て廬江王。九年、幽州大都督。朝廷は李瑗を懦弱と見て右領軍将軍王君廓を補佐に付けた。
- 隠太子建成の異図に外応していたため、太子誅殺後の召還に恐れを抱き、王君廓の煽動もあって崔敦礼を囚え挙兵した。北斉州刺史王詵を召し、兵曹参軍王利涉の献策(山東の旧竇建徳系首領を旧職復帰させ諸州を糾合、王詵は突厥と結び太原から、自身は洛陽から潼関へ進む二軍合勢策)を採るも、王利涉が王君廓を除いて王詵に兵を委ねるよう勧めた際に決断できずにいるうちに王君廓が王詵を斬り、衆に「李瑗が反した、王詵は既に斬られた」と告げて寝返らせた。
- 李瑗は数百の甲兵を率い出たところで王君廓と遭遇し衆は倒戈、独り残った李瑗は「小人の裏切りだ、汝もいずれ報いを受けよう」と言い残し縊殺された。年四十一、首を京師に伝え属籍を絶たれた。
廬江王李瑗附 王君廓
- 王君廓は并州石艾の人。若くして群盗を為し千余人を集め、李密に投じたのち唐に帰順、右武衛将軍・彭国公。劉黒闥平定後は幽州鎮守、突厥入寇を邀撃し二千余人を捕斬・馬五千匹を得た。高祖はその怒りで目・鼻・耳から血を流した壮気を藺相如に比して称賛し錦袍金帯を賜った。
- 李瑗誅殺の功で左領軍大将軍・幽州都督、李瑗の家口を賜り実封千三百戸。職務は放縦で長史李玄道に朝憲を盾に脅されることを恐れ不安を抱いた。追って入朝の途中、渭南で駅吏を殺して逃走、突厥へ奔ろうとしたが野人に殺され封邑を削られた。
淮陽王李道玄
- 高祖の従父兄の子。祖父の李絵は隋の夏州総管で武徳初に雍王を追封、父の李贄は河南王を追封された。武徳元年、淮陽王・右千牛。太宗の宋金剛討伐(介州)で十五歳ながら先登陥陣し賞物千段を得た。
- 王世充討伐、竇建徳の武牢での誘引作戦で伏兵を率い活躍。汜水の戦でも陥陣し戦果を挙げ太宗に称賛された。東都平定後、洛州総管、のち洛州刺史。
- 五年、劉黒闥討伐で山東道行軍総管。下博の戦で副将史万宝が意見対立から進軍を渋り、李道玄が深入りしたまま孤立して敗死、年十九。太宗は深く悼み「道玄は朕の深入りに倣った」と流涕した。左驍衛大将軍を追贈、謚は壮。子がなく弟の李道明(武都郡公)を嗣として淮陽王に封じ祭祀を主らせたが、弘化公主護送の際に公主が太宗の実女でないことを漏らした罪で爵除、のち鄆州刺史で卒した。
江夏王李道宗――隋末唐初の武功
- 李道玄の従父弟。父の李韶は東平王・戸部尚書を追贈された。武徳元年、略陽郡公・左千牛備身。劉武周討伐(度索原)の敗戦後、十七歳で太宗に従い拒戦、玉壁城で「深壁高塁で敵の鋭鋒を挫けば烏合の衆は自壊する」と献策し的中させた。竇建徳・王世充討伐にも殊効。
- 五年、霊州総管。梁師都の弟洛仁が突厥数万で夏州を攻めた際に閉門固守し大破、高祖は魏の任城王彰に比して任城王に封じた。突厥の郁射設を五原旧地から逐い出し疆界を千余里開拓した。
江夏王李道宗――貞観年間の武功と晩年
- 貞観元年、鴻臚卿、左領軍・大理卿を経て霊州都督。三年、大同道行軍総管として李靖の頡利可汗討伐に呼応、頡利を捕えさせ実封六百戸で刑部尚書。吐谷渾討伐では李靖の副将として、諸将が撤退を議す中で追討を強く主張し、賊を追撃し十日で捕捉、伏兵で表裏挟撃し大破した。
- 十二年、礼部尚書・江夏王に改封。贓罪で下獄・免官・削封を経て茂州都督、晋州刺史、十四年に礼部尚書に復した。侯君集の増長に対し「必ず戎首となる」と太宗に進言、のち君集の謀反で的中を示された。
- 高麗討伐で李靖と共に前鋒となり蓋牟城を落とし、賊の大軍来襲時に深溝待機を退け「昔耿弇は賊を君父に遺さなかった」と直衝し大破。安市城攻めで土山崩壊の責任を果毅傅伏愛に負わせ斬ったが、太宗に「土山の失は汝の罪にあらず」と赦された。陣で足を損じ太宗自ら鍼を施した。
- 二十一年、閑職を請い太常卿。永徽元年、特進・実封六百戸。四年、房遺愛の獄に長孫無忌・褚遂良の讒言で連座し象州に配流、道中で病没、年五十四。無忌・褚遂良失脚後に官爵を復された。学を好み賢士を敬い、地位で人を凌がず、河間王李孝恭と並び当代に重んじられた。子の李景恒は盧国公に降封、相州刺史。
隴西王李博乂
- 高祖の兄の子。高祖の長兄李澄・次兄李湛・三兄李洪はいずれも早世し、武徳初に李澄を梁王、李湛を蜀王、李洪を鄭王に追封。李澄・李洪には後嗣がなく、李博乂は李湛の第二子。武徳元年に封を受け、宗正卿・礼部尚書・特進を歴任。
- 妓妾数百人を抱え驕奢を極め、弟の渤海王李奉慈と共に高祖に鄙しまれ、「怨仇にすら善あれば抜擢するのに、親戚を委任せぬはずがない。小人に近づき経史も学ばぬなら二百匹の絹で経史を買い学べ」と戒められた。咸亨二年薨、開府儀同三司・荊州都督を追贈、謚は恭。弟李奉慈は渤海王、顕慶中に原州都督、謚は敬。
史論
- 高祖は中原平定の初め、疎属を先に封じ、そのため廬江王李瑗の反乱や李神通の功争いを招き、封徳彝が前に論じ房玄齢が後に譏った。河間王李孝恭は機謀深く識度弘遠で、蕭銑降伏に虚舟を用い、輔公祏平定に妖血をものともせず、入朝しては君臣の分を定め、邸宅を売って子孫を慮るなど善始善終、私なき論功行賞の体現者である。
- 水が血に変じた怪異が咎めなく過ぎたのは、李孝恭の節が神明に通じ志が宗社を匡すものであったため妖が徳に勝てなかったのだと論じる。李道宗は軍謀武勇に優れ学を好み賢を下し宗族中の傑物であったが、長孫無忌・褚遂良の私怨により冤罪を被った。無忌・褚遂良自身も後に劉洎・呉王恪を誣陥し道宗を枉害した報いで不慮の死を遂げたのは当然である。
賛にいう。疎属を尽く封じたことが乱を啓き公を害した。河間王李孝恭のみが軍功をもって称せられる。